第2章
中国発見― 香港、台湾、サラワク経由でキャンベラへ戻る
ジャーナリストのスパイたち
中国の現実
ことばと取り組んで
台湾へ
静かの日本へ
キャンベラへ戻る/妄想的中国恐怖症
中国デスク
朝鮮戦争要因
中印国境紛争

中国発見― 香港、台湾、サラワク経由でキャンベラへ戻る

 香港の2年間(1959年12月―1062年2月)は決定的なものとなった。それは単にエンドレスな中国人のディナー・パーティーでフランス製高級ブランディを飲む能力をレベルアップさせただけではない。それはもちろん、中国と中国人について、実にさまざまなことを教えてくれた。また同時に、これまでの私の保守的な政治的信念を考え直させるものでもあった。
 
これらの日々は、何よりもまず、アヘン戦争、ボクサーの乱を鎮圧するために送り込まれた欧米の軍隊が北京の故宮を略奪した事件、日本人と戦う勇気を持つ唯一の中国人集団を敵とした残酷な内戦において、腐敗した蒋介石へ肩入れした欧米の政策、アジアにおける欧米植民地主義の残酷さの不名誉な歴史、等々、こうしたことの詳細についてもっと綿密に観察することを私に迫っていた。
 
香港の体験は、私の中で、擦り切れたカトリック教に見切りをつけさせた。もし世界の人口の4分の1の人々がわれわれの「神」をもたずに楽しく暮らしているのなら、もしかして「神」はそれほど大事なものではないかもしれない。そもそもそれが存在しなかった、ということさえありうる。

 私は、偏狭なブリスベーン・カトリックという環境が生み出した典型的な副産物で、学校ではクリスチャン・ブラザーズによって人間形成され、父のカトリック的保守的インテレクチュアリズムによって強化された。ジェスイットたちは、もしも12歳の子どもの精神をわれわれにゆだねれば、その子の魂は一生われわれのものになるだろう、と自慢したといわれる。彼等ジェスイットがもう少しだけ幸運だったら、私の魂も彼らのものになっていたことだろう。

 私はまた、1950年代のクイーンズランドという風土で育ち、生粋の保守主義と反外国人偏見を共有していた。1956年英国からオーストラリアへ帰るときに乗った船は、英・フランス・イスラエル陣営による10月のエジプト攻撃が勃発したとき、ちょうどスエズ運河から2日の距離にあった。船上の英国人移民たちといっしょになって、デッキの上で、この犯罪的行動を正当化するアンソニー・イーデンの演説放送に喝采を送ったことを覚えている。目下進行中の戦闘の場となり爆破された船もあったため運河が即時閉鎖されたということは、われわれの船がはるか喜望峰を迂回しなければならないことを意味したが、こうした事実も、われわれの狂信的身びいきやプライドを揺るがすことはなかった。
 
偏見への最初の一撃は、その後まもなく、キャンベラで働いていた時にやってきた。1956年10月のエジプト攻撃を正当化する議論の中心は、あいつら遅れたエジプト人がわれわれ高度な文明の西側陣営の手から国有化したスエズ運河をうまく運営できるはずがないという考え方だ。ところが、私のデスクの上に置かれたレポートは、エジプトの技術者がたくみに沈没船を引き上げ、誰も予想がつかなかったほど速やかに運河を復旧させたことをしぶしぶながら認めたものだった。
 
なかにはスエズ運河が、西側がコントロールしていたときよりもうまく運営されているらしいことを示唆したレポートさえあった。

香港での日々はこうした外国人に対する偏見を打ち破るのを早める助けとなった。私は連日のように、平均的オーストラリア人より格段に文明化され、しばしばより賢い中国人と接触する仕事の中に投げ込まれた。

思い出すのは、キャンベラの当時の防衛大臣だったアラン・フェアホールの香港訪問だ。大臣とともに空港から市内に戻る際、車は、週末の行楽から帰る中産階級の人々の車の列の渋滞に捕まってしまった。彼らを見ていた大臣は驚いたように叫んだ。“実際、彼らも、週末の海水浴から帰る普通のオーストラリア人と同じじゃないか!”

こうしている間も、私は中国語の勉強を続けることになっていた。午前中は英国外務省の連中と、香港大学が彼らのために実施していた中国語のいわゆるインテンシブ・コースに参加して過ごした。(私の同級生の一人は、かなり気難しい、それにあまり頭のよさそうでないスコットランド人で名前をデビッド・ウイルソンといった。彼は後に香港の総督になった。)

われわれの「教師」は主に中国本土から逃げてきた難民インテリだった。彼らの教育法とは、自分たちが後に残してきた本土の生活や文化をノスタルジックに漫談調で語って聞かせ、われわれに理解させようというやり方だった。

午後か夜には、オーストラリア代表部で働いた。これまた刺激的というにはほど遠かった。当時の領事は、中国語が全くできないのはもちろんのこと、中国の革命政府の政策に反対しているのは全人口のわずか1割だと北京が云っていることをはじめて知ったという人物だった。
 
キャンベラへの緊急メモの中で彼は、中国内には6千万人の反革命分子がいることを、北京自身でさえ認めている、と明かしている。
その後彼は、私に耳打ちして、中国スペシャリストになることの危険をあれこれ語って私に忠告した。彼は若い頃アラビア語を学ぶために現地に派遣された。だが彼は、その後のキャリアを通じて意識的に中東とアラビア語を避けた。それが大きくものをいった結果と思われるが、最後は外務次官にまで昇進した。

ジャーナリストのスパイたち

私は他にも、中国に関係している欧米の官僚やジャーナリストたちと交わった。その大半はコチコチの反北京派だった―― なかでもアルソップ兄弟:彼らの著作が後にアメリカのベトナム介入に極めて有害な役割を果たした―― また彼らのうちかなりの人間が隠れた情報組織のメンバーだった。
 
何年も後になって、東京で特派員をしていたとき、私は同業の特派員たちによる新聞の自由を要求する呼びかけと、投獄された同業者新聞記者たちの運命に抗議する声に出くわした。私としては彼らに、まずは自分たち自身の中にいるスパイを明るみに出すことに活動のエネルギーを注ぐべきではないかといいたかった。それをやった後ではじめて、トラブルに陥った同僚の運命を心配すべきではないか。

東京の記者たちは、鉄のカーテンの両側からのスパイ機関の侵入に頭を悩ましていた。侵入された記者たちの幾人か、たとえばカール・バックメイヤーは、自分たちが情報機関にコネを持っていることを自慢にさえしていた。その存在が許容されていたばかりでない。きたない形で手にした利益でもって記者団体の名誉会員として地位を獲得することを簡単にやってしまった。

私がおおざっぱに推測したことによれば、アジアで働く英国とオーストラリアのほとんどすべてのジャーナリストは、その前歴の身元確認スクリーニング(ふるい掛け)をやられていて、その結果、半数くらいの人間は、時には本人の気付かぬうちに、接触を受けたらしい。(彼ら好みの判定テクニックは、各大使館のスパイ代表から、金を出すから地元の情勢や人物たちに関するレポートを書いてみないかと誘いかけることだ)選ばれたものの半数はその後、積極的にあるいは何らかの形で彼らと協力することになる。
それは単に金のためばかりではない。スパイの元締めから得る諸々の情報やコンタクトを使って、地道に成果を挙げようと努力しているより恵まれないそして正直なジャーナリストたちを出し抜いてスクープをものにし、点数を稼ぐこともしばしばだった。まもなくすると彼らは、言葉もできず他の目立った能力もないままに、その分野のエキスパートとしてその世界に君臨することになる。戦後日本で活動したオーストラリア人ジャーナリストの第一世代の幾人かは、このカテゴリーに属する人々だ。
香港でこの種の活動家の一人が、オーストラリア人ジャーナリスト、リチャード・ヒューズだった。彼の口癖は、中国の指導者全てを“コミー・ランニング・ドッグ(共産主義の走狗)”とレッテルを貼ることだった。欧米メディアはそれに喝采を送った。いうまでもないが、彼もまた中国語はひと言も話せなかった。1983年彼が突然他界したとき、大金を所持していたことが発覚した。

彼が働いていた期間の大部分を、英国、オーストラリアの情報機関から金をもらっていたことをまともに否定する人は少なかった。けれども仕事の大部分の期間を通じて、彼は香港の各通信社から長老扱いされ、中国問題のエキスパートとして中国に関して取材したい欧米からの訪問ジャーナリストその他にとって、必ず会うべき人物とされていた。

何年も後になって、私がベトナム戦争に反対して立ち上がり、物書きとして地歩を固めようとしていたとき、何度か彼と “衝突した”ことがある。自分の税金が自分を追い落とそうとした彼のスパイ活動のために使われたことを考えると、いい気持はしなかった。
 
中国の現実

私自身のための情報収集取材としては、やるべきことは、香港にいる難民友人や知人の多くの人が話していることに耳を傾けることだった。―― つまり、彼ら自身共産主義の下では苦労を味わったであろうという反面、腐敗した無能力な蒋介石の国民党政権に代わって、1949年までには、共産主義政権が出現することは避けられない事態だったと考えていた。彼らの多くはそれを歓迎していた。

私のアパートのメードは典型的な例だ。彼女が結婚した相手は、上海の店の経営者だった。ブルジョワ分子として罪を問われることを恐れ、彼女は1949年国外逃亡した。5人の子供は国に残してきた。彼女が逃げ出した共産主義政権の下で、彼女の子供たちは全員、大学を卒業し医者、エンジニア等の職についているという。もし彼等が香港に来ていたなら、おそらく僅かな日銭のために汚い道ばたでプラスチックの花を組み立てていたのではないだろうか。共産主義革命の初期の頃の平等主義的熱気と発展は、大躍進と呼ばれる毛沢東主義者による一片の狂気によって、終わりを告げる。数千人が餓えのために死んだとか、さらには人肉食とかまで、信頼すべき筋から報道され、われわれの香港事務所まで届き始める。それら全てを理解するのは、至難の業だった。
その後数年たってはじめて、人間の弱い脳がどれほどきちがいじみたイデオロギーに降伏しやすいか、そして破廉恥なリーダーたちは競争相手を倒すためにこうしたイデオロギーをいかに簡単に利用するか、私は理解し始めることになる。

ことばと取り組んで

 一方、この間も、私の中国語の勉強は続いていた。香港大学で1年間勉強した後でも、まだしっかりと中国語を話すことはできなかった。私はことばの勉強で教科書中心方式の典型的な犠牲者だった。中国語は「ティーチ・ユアセルフ」ブック方式の学習に当てはまる外国語ではない、とわかってきた。
幸いなことに、私は、中国語を見事に操っているように見えた、二人ののん兵衛の英国軍部情報機関タイプの男(ビル・ナッシュとイアン・レイ)と知り合いになった。実際には彼らの中国語は完璧とはほど遠かった。だが、難しいことばを学ぼうと格闘しているものにとって、たとえ実際はぺらぺらにはほど遠い使い手であったとしてもまるで超人的能力の持ち主に見えるものだ。
 
彼らは中国人の友人知人を招いて毎週ディナーパーティをやっていたが、そのパーティに私を加えてくれた。私はそこでディナーテーブルのスピードある会話の声調や音を捉えようと必死で耳を傾けた。次第に少しずつではあるが、時々は話を捉えて、二言三言口を挟むことができるようになった。そしてついに難しい外国語を確実に話し理解したい人がたどるべき非常に長い遠い旅へ乗り出すことになった。
 
私は“ことばを生きる”ことを始めた。ことばは人間の体から発せられる音である。教科書から出てくる印刷されたことばではない、ことを発見しつつあった。
 中国語は多くの人が考えるほど難しくない。日本語や韓国語ほど難しくないことはたしかだ。語順はかなり英語に近い― 後で気がついたことだが、語順が単に逆であるというばかりでなく、しばしば完全に狂ってしまう日本語の場合を考えると、これは大きな救いだ。
 
たしか、声調は厄介だ。(中国語では4つ)最初は、ことばを話すのにはまったく不自然なやり方のように思える。だが練習して使ううちに、次第にその意義が分かってくる。それは結局は、他の言語でははるかに微妙な形で意味の区別に使っているアクセントやイントネーションを、誇張したものにすぎないのだ。
 かえって、声調があることで、微妙なイントネーションがよりはっきりと聞こえ、ことばが話しやすくわかりやすくなる。だが声調が平板なオーストラリア育ちにとって、声調の違いに耳を鳴らすのは、時間がかかる、しかも多くの時間が。
 
またもうひとつの問題は、話す相手を見つけることだった。私は今では“ことばを生きる”ためには日常生活の中でことばを使う必要があることを自覚していた。ところが、当時の香港では、マンダリンを話す人は少なかった。
 香港の住民は、当時もいまも、広東語を話したがる。マンダリンを話す人はほとんどが本土からの避難民か台湾からの訪問者だった。そういう人と出会い友達になるのは簡単ではなかった。
 香港島と九竜の間を行き来するスターフェリーの乗ると、たまには近くでマンダリンを話す人の軽快な声を耳にすることがあった。私は生のマンダリンを聞くことに必死になっていたので、急いで席を変え少しでも近づいてその人の云っていることばの端々でも捉えようとした。
 皮肉なことに、私がついに“ことばを生きる”ことを実際にはじめたのは、1962年キャンベラへ戻った後のことだった。私はキャンベラの台湾大使館のCと親しくなった。そのおかげで、毎日のように日常生活のレベルでそのことばを話すようになっていた。何語であれことばを学ぶ人はすべて、無意識の領域にことばを定着させなければならないが、私はついにその無意識の領域にまでマンダリンを定着させることができた。
 Cは後にアメリカへ行き、国連で働く同郷の中国人と結婚した。3人の子持ちと聞いている。彼女の生活が豊かに花開いたことを嬉しく思っている。そうは行くまいと思える時期もあったからだ。彼女に対する私の気持は、友人としても、先生としても、生涯変わらない、たとえ彼女が私の感謝の気持を知らないと思われるにしても。
 このほか香港で、自分自身の問題としてぶつかっていたのは、ことばを勉強している対象の国へ行くことができないことだった。あの冷戦期はオーストラリアの外交官は中国に上陸することさえ許されなかった。キャンベラは、それを許せば、大陸本土の恐るべき共産主義者を承認することにつながると心配していたのだ。
 ところが、英国人の私の同僚たちは簡単に中国へ出入りしていた。私は彼らに嫉妬することしかできなかった。北京の英国大使館に赴任して2~3年過ごす者も多かった。
 時には私は九竜駅に出かけ、広東から着く列車を羨ましく眺めたものだ。列車から降りてくるごく普通の人々― 農民、外国のビジネスマン、香港住民― は、自由にあの地に出入りしている。私はできない。

台湾へ

 しかし台湾なら私も行くことができた。台湾では、今でも多くの人が考えるよりはるかに広範に、マンダリンは公用語であるばかりでなく日常語になっている。台湾を訪問することは、ことばに対する自信をつけるのには役立った。だがその島は貧しく、停滞し、腐敗していた。そんな中でひとつ、反中国プロパガンダは、華々しく元気だった。
 そこの政権は、共産中国の女性は共産主義のいわゆる自由恋愛ドクトリンの下で、性的所有物となって共有されることを強いられている、と陰気なポスターで警告することに力を入れていた。事実はもちろんその正反対で、ちょうどその頃中国は極度にピューリタン的になっており、女性に触ることすら半ばレイプ的行為としてとがめられた時期である。一方台湾は、女性の売春が溢れており、床屋で散発をしてくれる若い女性たちですら、スペシャルサービスの用意があると期待もたせる有様だった。
 
台湾訪問は、この他にも、その地における国民党政権に対する台湾人のレジスタンスについて調べて欲しいという、キャンベラからのあいまいな形の依頼を受けてのことでもあった。(ほんの10年かそこら前、国民党政権に反対していると疑われた何万もの教育程度の高い台湾人が殺害された― 中国本土の共産主義の暴虐を指摘するのが当時の流行と考えられていた時期で、われらが冷戦プロパガンダたちが必死に無視しようとしていたことのひとつ)私はその話の一、二の例を掘り下げ、人々の話を聞くことができた。
 
その苦労の結果は、台湾政府のスパイたちから絶えず監視されることになった。またキャンベラも、私のリポートに対して何の反応も示さなかった。私も、口を謹んで、アメリカの親台湾派ジャーナリスト群団の台北探索に加わって食べ物やガールハントの話でもやっていればよかったのだろうが。
 
一年後に、新聞記者として働いていた時、国民党政府から今後一切台湾入国を禁ずるという人物リストに自分が入っていたことを知った。それと同時に、私には中国のビザが禁止になった。そのころはまだ中国政権の熱心な崇拝者に対してはビザは支給されていたのだが。

中国と台湾の両方から拒否されるという事態は、当時かなりの数の中国専門家、とくに長い間中国語を勉強してきて、両方の立場を公平に見ようと努めてきたような人々に降りかかった運命だった。 1961年の終わりごろ、私は当時の外務大臣ジョン・ゴートンと夫人の台湾公式訪問に付き添うことになった。台湾の国民党政府陣営は彼によい印象を与えようと総力を挙げての歓迎ぶりだった。
 
その頃、西側の大物訪問の際には、取って置きの出し物として高級な中国工芸品の展覧会を見せる習慣があった。陳列品のどれかにゲストがほんの数秒間でも気を惹かれた様子で立ち止まると、それと同じかその類似品が、程なく丁寧に包装されて、効能書きを添えてゲストの元に届けられるのだった。
 
その種のもったいぶったもてなしを受けると、初心な西側人は、台湾こそ本当の中国だ、全面的に支援しなければならない、と思い込んでしまう。ゴートン夫妻もそんなもてなし方をされた。が、私の見るところ、彼がそれほど影響されたとは思えなかったが。彼は反共主義の強硬派ではあったが、正直な政治家として、私は後には彼を尊敬するようになった)
 
ある日われわれは、国民党総統の蒋介石と断崖の上に座っていた。一行は、空からやってきた部隊がパラシュートをつかって、重装備で台湾海峡に降りる様を眺めていた。下りた部隊は、そのまま岸まで泳ぎ着くという設定になっていた。それは中国本土からの侵攻を想定した訓練だった。(西側のプロパガンダ機関は、今でもそうだが、北京が台湾に対して同様なことをする権利があると主張すると、許しがたいといって糾弾していた最中のことだ)

 (数年後、ベトナム戦争の最盛期に、私はビル・ヘイドン外相に、このような作戦行為の事実、そしてまた国民党が発表した本土進攻決行のための破壊活動訓練の写真を、国会の紹介資料として使い、この分断国家の一方側によるもう一方の隣人(中国)に対するこうした行為をオーストラリアは“侵略”として抗議すべきなのか、国会で問い正してみてはどうか、と説得を試みた。
 
(外務省から、そのような写真は見たことがないというぶっきらぼうな回答が帰ってきた。何をかいわんや、である。

われわれの上司だった外務省の上級官僚キース・ブレナンはゴートン首相に、このような邪悪な二枚舌を認めるのはオーストラリアの公式政策ではあるまいと主張しようとした。ブレナンはさらに、蒋政権はまた、正直でやさしいという評判はあまり聞いたことがないぞと、警告も発している。それに対するゴードンの答えは、忘れられない― “連中がならず者だということは知っている。だが、このならず者はわれら陣営の味方なのだ。向こうの奴らは(中国を指して)そうではない。”
 
当時の狂った冷戦対決を正当化するさまざまな発言の中では、これは他のよりは少しはわかりやすい。

静かに日本へ

 香港時代の副産物はもう一つ、日本発見だ。韓国にいた同僚、当時国連のCURKでソウルのオーストラリア大使館付きだったリチャード・ゲートから一度来ないかと招待されていた。そこで、韓国から日本へ行こうと思い立った。
 
香港や台湾の貧しさがひどいというなら、韓国はさらにひどかった。ソウルやプサンの街並みを失業者の群が、なんであれ必死に仕事を求めて、さまよっている。だがUNCURKのジープで晩秋の東海岸をプサンへ1週間の旅をして、私はまた、この厳しい妥協を許さない国の自然の美しさについて、多くのことを学んだ。 

プサンから週1便の小さな船に乗って福岡へ、それがその頃は日本へ行く唯一の便だった。(今日では、大型の水中翼船やジェットフォイルが日に何便も出ている。)

博多港に上陸して、私はこの全く未知の国で完全に一人ぼっちなのだ、そして「ティーチ・ユアセルフ」ブックもあまり助けにならないことに気がついた。だがただ一つだけ、単に日本食が好きだというほかに、私に味方してくれることがあった。日本人の使う漢字は中国の漢字と大体同じだ。そのため私は、日本人が文書やポスターにふんだんに使っている漢字が読めた(実際、日本語で漢字は中国の字という意味だ)。ということは、自分が今どこにいるのか、いつでもわかるということだった。

香港にいる日本人の同僚、アジア経済研究所(現在の英語名はIDE)の尾上悦三氏が親切にも役に立つ日本語をテープに録音してくれていたので、それも少しは役に立った。

福岡から汽車で長崎へ行き、そこから東京へ行こうという計画だった。どうしたことか駅のホームのアナウンスを聞き違えて、名古屋行きの列車に乗ってしまった。その結果、途中の広島で、予想もしなかった夜を過ごさなければならないことになった。

はじめての素顔の日本との出会いの印象は、鮮烈に記憶に残っている。広島駅の周辺に小さな屋台がたくさん出て、混雑と興奮の迷路のようだった。このわずか16年前、この街は原子爆弾を落とされたのだ。だが当時の広島には、その後の広島につきものとなった大衆規模で戦争時代への自己憐憫にふける姿は、かけらも見られなかった。

長崎と名古屋を間違えてしまった結果、私の旅は予定よりずっと早く東京へ着いてしまう。そこで名古屋から遠回りの山間部を行く中央線に乗って東京まで行くことにした。その選択は正解だった。
 
戦時中を体験した多くのオーストラリア人と同じで、また当時の香港で中国人と付き合った欧米人がたいていそうであるように、私も反日的な偏見を共有していた。けれども中央線沿いの晩秋の風景の信じられないような美しさ―― 沿線を途切れることなく続く樹木の密集した山の斜面、駅の広場できれいに積み上げられて搬送を待っている雨に濡れた材木、村々の魅力、車内の人々の親切、地元の宿で部屋の世話をしてくれたはにかんだ少女―― こうしたこと全てが合わさって、私はこれは邪悪な国に住む邪悪な人々ではないぞ、と悟り始めた。
 
そして、辺鄙な村で私に一夜の宿を世話してくれた駅長がいた。翌朝彼はわざわざやって来て私が支払いをうまくできるか手伝おうと宿に姿を見せたのだ。最もその必要はなかったのだが――、宿の主人はどっち道、この迷える外国人にただで泊まらせてやろうと決めていたのだから。駅長はまた、私が旅の行程の次の目的地まで正しい列車に乗るように、見届けようと気を配っていた。この世界のどこでこんな親切なサービスに出会えるものか。
 
東京についてからもこの好印象は続いた。敗戦と破壊から立ち直ろうと戦っている民族の生のエネルギーを感じた。そのときすでに私は、私がもっと知りたい国がここにあるという感じを抱き始めていた。
 
東京からもっと汽車で旅行してみようと決心した。その頃までには私は、ひらがな(表音文字として日本人が使うもうひとつの文字)を覚えようと懸命になっていた。仮名と漢字を組み合わせると、詳しい列車時刻表まで読めるようになった。これで行きたいところへ行きたい時間に、簡単に行けるようになった。この、時刻表を使った旅は、東京在住の外国人の多くがまだ理解していない便利さなのだ。

さらに深い印象を受けたのは、東北(本州の北部)の田舎の深いみどり、京都で寺を案内してくれた英会話練習中の若い女性(それも無報酬で)、別府駅から坂を上った高台で小さな屋台の簡易食べ物屋を営む女将、親切にも私を一晩泊めてくれた。南九州の霧島連峰にかかる初冬の霜を踏んでの気ままな山歩き、沖縄の火山質の島々を船でぐるりと島めぐり。そのとき私は、いつか何らかの方法でこの不思議な国へ戻って来たい、と実感していた。

 
キャンベラへ戻る 妄想的中国恐怖症

香港へ戻った頃には、私の2年間の任期は終わりに近づいていた。キャンベラに戻る道すがら、今回は北ボルネオとサラワクに立ち寄ることにした。
 
この両方とも、マレーシアと呼ばれる人工的な国に取り込む計画をめぐって論争中だった。サラワクでは華僑の中国人の何人かに会う機会があった。彼らは植民地政権によって長年味わわされた差別について、またマレー人が優勢を占める国家でこれから先味わうだろう更に大きな恐怖について、明らかに本音で語っていた。
 
より若い、より理想主義的な中国人はインドネシア領ボルネオの国境沿いの山地へ入った。彼らの大部分はその後、装備もはるかに優れ、給料も高い英国やオーストラリアの軍隊との不公平な、ハンディの大きい戦闘で一掃されてしまうことになる。彼らの死について、また彼らのモチベーションについては、歴史に語られることは永久にないだろう。
 
キャンベラに戻って判ったことは、これらの抵抗者たちが大義を持った人々とはみられていないということ。それどころか、彼らは北京の傀儡であり、これはアジア南方へ進出を目論む北京の好戦性と決意を明白に示したものだ、と見られていた。なぜそうなるのか? 返ってきた答えは、それは彼等が主に中国人であり、海外の中国人華僑は北京に借りがあることは誰でも知っている、というものだった。
 
北京はこれらの抵抗者に対して武器も資金も人も全く何一つ支援していない、という事実も、関係ないと無視された。キャンベラ・エキスパートたちの石頭には、抵抗者たちは中国の東南アジア併合計画のために中国が用意した“海外華僑第三コラム”(これは私がつけた名前ではない、彼等が付けた名前)のメンバーということだった。
 
こは、以後私のキャリアの道程で、非常に私を悩ませ続ける議論との最初の出会いであった。ここに、知能指数も教育程度も高く、外交政策を任された人たちがいる。ところがこの人たちは、自分が勉強しなければならないはずの紛争の真実について完全に何も知らないことに全く平気でいるのだ。自分たちのドグマチックな一方的な判断に心地よく包まれて満足している。どうしてそんなことができるのか。そして自分の良心とどう折り合いを付けているのか ?
 
サラワクの場合は、この偏見の結果、死ななければならなかった中国人はほんの数百人だった。だが、ベトナムの場合は数百万人にのぼることになる。

中国デスク
 キャンベラに帰って、次の配属が決まるまで、省の東アジア課に入れられた。そこで私は、キャンベラの反中国妄想についてさらに、はるかに多くのことを経験した。その基本的な前提は単純だ。ペーキン(そのときはこう呼ばれていた)は敵である。したがってその一挙手一投足は猜疑心をもって見なければならない。この深く邪悪な源泉とは、いかなる形の接触もありえない。罪のない舞踊団のシドニー訪問でさえよくよく慎重に扱う必要がある。ちなみにいえば、その時の中国は、1962年までには大躍進時代の狂気を清算して周恩来や鄧小平のような穏健派の指導者の下でまとまっていこうと努力していた。
 
私は、中国が、サラワクの醜い弾圧状況にも不介入政策を採っていることは、中国が国境の外で起こっていることに関心を向けない、まれに見る内向きの国なのだということを示している、と彼らに示唆しようと努力した。たとえば、キャンベラやワシントンが、同じような状況でこのような自制心を示すとは、私には想像できないことだった。
 
私のこの考え方もあまり賛同は得られなかった。そこで私は意見書を提出した。―― われわれは台湾・中国の接触を後押しすべきだ。―― 台湾の例を中国が学べば、中国自身マルクス主義的信念の頑固さをいく分か軌道修正する方向へ向かわせるのに大いに役立つはずだと考えたからである。このアイディアは、門前払いどころか門に近づくことさえできなかった。(古い外務省ファイルを調べる研究者の方は、私のこの意見書に当たってみて欲しい、そしてそれへの反論にも。)
 
私は、その3年前にシンガポールで見た1959年のリ-・クワンユーとのあらゆるコンタクトを禁止した背景にあったと思われるものの一端を発見した。
 
リーが政権を獲得した1959年の選挙では、キャンベラ、ロンドン、ワシントンは密かにリーの対立候補―― 力はないが親英国のリム・ユーホック―― の手に大金を握らせたと思われる。いずれにしろリーが勝利した。そして数年後リーはリムをキャンベラへ大使として派遣して復讐を果たした。
 
キャンベラでは、リムはさらに輪をかけた無能振りを発揮。彼は大使館から一週間姿を消した。そして必死の捜索の結果、サンドラ・ネルソンというシドニーのストリッパーに保護されているところを発見された。欧米陣営が、東南アジアへ共産主義の拡大の恐れに歯止めをかけようとして、選んだのはこういう人物だった。
 
ベトナム戦争時代、アジアに関する会議やディベートで、アジアにおける西側陣営の無知さを証明するものとして、私はこの話を何回となく繰り返し披露した。つまり、アジアを共産主義から回避するために必要なリーダーシップを発揮する人物として、リム・ユーホックではなくリー・クァンユーの重要性を西側諸国が認識しない限り、アジアの他の地域特にベトナムで、無能力な独裁者のオンパレードの中で西側が成功するチャンスは少なかったということである。
 
私の知る限り、オーストラリアの知的エリートたちは、未だにこの決定的に重要なポイントに無関心なようだ。彼らは当時は、枝葉末節なANZUSやSEATOの役割に性懲りもなくこだわっていた。一方、われわれ側がリーを隠れ共産主義者とみなして彼が政権に着くことを非民主的な方法で阻止しようとした、というはるかに重要な事実に注目できないでいた。
 
アジアにおける西側の、オーストラリアも含めて、政策の中で、これよりひどい罪業は私には思いつかない。とはいえ、私が得た唯一の反応は、よりによってブライアン・ジョーンズからだが、サンドラ・ネルソン事件を持ち出すことで、私がリム・ユーホックのプライバシーを侵害しているという反論だった。
 
私は一度、シンガポールでの講演で、この話の一部始終を取り上げたところ、それは広く報道され、リー自身のコメントまでもらった。少なくともシンガポール人は、アジアで何が重要かそうでないか、知っていたわけだ。
 
現在のオーソドックス主義と矛盾する真実とか事実を無視するオーストラリア人の奇妙な能力には、今なお私は理解に苦しんでいる。東アジア課で仕事をしていた間に、一度としてこの重大な事実―― アメリカは事実1949年に中国の指導者として蒋介石を記録から消し去ったのであり、中台対決は1949以前からの内戦の延長でありアメリカはそれに介入する意図はないと認めた事実―― に言及されるのを見たことも聞いたこともない。(ワシントンは、朝鮮戦争が勃発した後になってからはじめて心変わりした。モスクワは南朝鮮に対する北朝鮮の攻撃を応援していたが、中国はどちらかといえば、かえって攻撃に反対したという事実にもかかわらず、である)
 
私がキャンベラに着いた頃には、うぶな政治家のみならず、情報に詳しいはずの外交政策官僚たちまで、国連その他で中国国民の真の代表として台湾と蒋介石を支持するのは正しいと信じ込んでいた。ゴートンに蒋介石の疑わしさを警告していたキース・ブレナンのような進歩派は、軟弱な、アジアの現状を全く知らない、小文字のエルの“リベラル”だと見られていた。
 
東アジア課で私の直接の上司で、先輩として面倒を見る役目の人物はヒュー・ダンだった。繊細でまじめで中国研究の素養もあった―― 部の中では非常に珍しいことだった(ただし彼も中国語は話せなかったが)―― 私は、少なくとも彼は中国の周辺で何が起きているかについて独自の考えを持っている人物ではないかと期待した。しかしそれもやはり間違いだった。かれもまた中国の侵略性という神話に取り付かれていた。後年ベトナム戦争の秘密の電報が公開されたとき、彼の名前があちこちの奇妙な場所に現れているのを見たが、それが意味するのは、彼は私が思った以上に実ははるかにタカ派的で、キャンベラの悪質な政策を打ち出すことに密接に関わっていた疑いがあるということだろう。

朝鮮戦争的要因
 ダンはそれ以前は朝鮮に赴任しており、彼のタカ派性は、ジェームズ・プリムソル(1960年代の大半を外務省事務次官を務めた)や当時の他のシニア外交官たちと同様1950-53年の朝鮮戦争の経験と記憶に非常に強く影響されたらしい(ダンはプリムソルと同様ソウルに駐在し妻は韓国人である)。彼らにとって大事なことは、ただ一つ、ソウルにいるたくさんの知り合いの人々が朝鮮戦争で苦しんでいるということらしかった。そこから出てくる結論は、この苦しみを引き起こした北朝鮮の共産主義者が悪者に違いないということ、その延長で他のアジアの共産主義者また親共産主義者も邪悪である、となった。

それは奇妙に自分中心的な外交姿勢だ。外務省の私の同僚たちは、自分たちが知っている人々の苦しみやモチベーションとは親密に寄り添うことができる、ところが自分たちが知らない人々の苦しみやモチベーションを理解するために、推し量る、想像してみるという努力ができない。

 朝鮮戦争の現実について、―― この戦争は恣意的で正統性のない朝鮮半島分割を終わらせるための内戦だということ、その中では、南朝鮮が北を攻撃せざるを得ない、そしてどっちみち南はそうすると脅しをかけていたのだが、北朝鮮はそれと同等に南の暴虐的なライバルを攻撃する権利を持っている―― こうした考え方は彼らの頭を夢にもよぎることはなかった、少なくとも私が見た文書上では見出せなかった。

 アメリカの大規模介入がなかったならば、北朝鮮は簡単にこの内戦で勝利しただろう。通常、選挙がない場合は、外国の介入なしで内戦に勝利した側は国民の意志を体現していると見ることができる(ほぼ一世紀前のアメリカの内戦の場合が確かにそうだった)。ところが何らかの理由で、この原則は朝鮮の場合には当てはまらないことにされてしまった。

 また偏狭なキャンベラ人の精神は、なぜ北朝鮮が国民の半数以上の支持を得ている可能性があるのかという理由―― というのは、1945年以前は、反日を戦う唯一の有効的勢力は親共産主義派だけだったから―― などという細かい事実を掘り下げてみようという気持になることなどあり得ない。1950年以前の南における進歩派勢力に対する卑劣な取締りや処刑、とくに1948年のチェジュ(サイシュウ)島における大量虐殺の事実は、南に対する北の攻撃に道義的正統性を与えていた。

 これよりさらに有力で否定できないことは、1950年8月国連におけるアメリカの言明で、アメリカはその時独自のアメリカ流の反共的条件に基づいて朝鮮半島を統一できると信じていた。1950年6月には、アメリカとキャンベラは、介入の理由付けとして、北朝鮮が国際的に認められた境界を越えて侵略した事実がある、と主張していた。ところがそのほんの2ヵ月後、1950年8月自分たちの部隊が中国国境へ向けて北へ移動していたときには、アメリカは、半島を分断するための歴史的基盤があることを平気で公式に否定している。

 首尾一貫性がない―― これはわれらが朋友アメリカが最近身につけた性質ではない。
 

いうまでもなく、私の外務省在職中に、この言明について、ましてやその意味合いについてはもちろんのこと、一度として触れられていたのを見たことがない。―― 私がそれを発見したのは、外務省を辞めて何年もたってから偶然にである。われらの政策策定者にとっては、北朝鮮への攻撃と、その後の中国国境へのアメリカの進攻を防ぐための中国の介入は、全てオーストラリアに脅威を与えるアジアの共産主義の攻撃性の証拠であった。その結果、インドシナで数百万の人間が死ぬことになるのである。

 これと全く同じ自分中心的現象を、その数年後、私はまたまたベトナムに関して体験することになる。―― そこではまたしても、向こう側の人々が蒙る残酷な苦しみと、内戦を戦う彼らの権利ということは、完全にキャンベラの同僚たちの意識の外にあった。またしても、彼らの眼中にあるのはサイゴンの反共主義のわれらの友人たちだけであり、その苦しみだけだった。

 1954年ジュネーブ協定がベトナムのいかなる分断も禁じると再度特別にダメ押しをし、統一選挙を提起している事実など、わがキャンベラや他のタカ派たちにはどこ吹く風だった。

 外交問題に関してこの自分中心的アプローチは奇妙なものだ。教育程度の高いオーストラリア人でさえ、少し立ち止まり一歩下がって、物事を客観的に見ることが難しいらしい。彼らは主に個人的経験に頼っている。彼らの直接の個人的経験といえば、当然、オーストラリア外交政策が承認している側の例のみであるから(1959年のシンガポールの場合の、ように他の側と話して見ようとする者はほとんどなし)、勢い、その側だけに心情的にコミットすることになる。

 日本でも同じような、個別的、心情的な一方性を見ることができる。―― 日本では他にも、オーストラリアと似たような価値体系を多く目にする。教育ある日本人でも、戦時中自国が中国、朝鮮、東南アジアの多くの国に与えた残酷さの実際について、認識できないことは、私が後年好きになり、ある意味では敬服もしている国の評判に、消えることのない、許すことのできない汚点を長く残すことになった。

中印国境紛争

 だが、何にもまして私を絶望させたのは、1962年10月の中印国境戦争だった。その戦争はキャンベラの反中国、反共産主義憎悪の頑迷さ、そしてどんな形の変化も期待できないことを、決定的に私に悟らせた。

 中国デスク担当者として、私はその年一年間その国境紛争の事実経過を詳細にフォローしてきた。これはネルーが危険な前進政策を推進したものであり、インドに非があるのは明らかだった。中国は、防御する立場から、ネルーに対し紛争エスカレートの危険性を警告し世界の世論に訴えてインドの前進を止めようと必死になっていた。

 戦闘が始まったとき、地図を見れば、インド側の主張でも最も野望的な線をインド軍が越えて北進してきたこと、そしてこれが中国の報復を招いたことは、一目でわかった。中国は係争中の国境の度重なるインドのハラスメントを、今度こそ終わらせようと断固たる行動をとろうと決断した。

 ところが、こうした詳しい事実経過に対する関心はほとんどなく、中国は攻撃者で、平和的で民主的なインドは罪のない犠牲者とレッテルを貼ることのほうがはるかに簡単だった。私はこの話を記事にして、私の二つのウエブサイトから発信した。“戦争を記憶して― 1962年印度中国紛争” と“書評: ネヴィル・マクスウエル著「インドの対中戦争」”である。読者はそれらの記事を読んで、自分自身で結論づけてほしい。

 1965年に外務省を辞めて数年間、私はこの事件の正確なバージョンを広めようと努力を重ねたが、失敗に終わった。後に、この中印国境問題に関する西側の偏った見方が、インドシナであの恐ろしい介入を正当化する基盤になっていることを知り、私のフラストレーションは怒りに変わった。

 ヘンリー・キッシンジャーほどの頭脳明晰な情報通の人間でさえ、1962年の出来事は中国の攻撃性と南進への決意の現われだと、当然視していた。中国は、インドに当然の教訓を与えた後、自国の部隊を、中国が主張している国境からさらに引いて、インドが主張している国境内まで後退させた。これは重要極まりない事実で、国境に対する中国の自制心を示す証拠なのだが、このことは一度も認識されたことがない。

 それどころか、中国が後退したのは西側がインドを強く支持する決意を示した結果である、と見ているのである。やれやれ、何をかいわんやである。

 この後、私は何度となく繰り返し見ることになることだが、相手方が妥協的な行動をとった場合、それは西側諸国の断固たる反共産主義的態度に相手が屈服したからだと信じ込む子供っぽい単純さ。これがさらにはどうしようもなく、容赦なく、前ユーゴスラビアや今日の中東における西側政策の攻撃性へつながっていく。しかしこれはまたひとつ、別な物語に属する。その物語は、この後まもなく、私が2年間その真の“敵”の胸ふところに飛び込んで過ごしたあの狂気じみた日々の幕開けとともに始まる。そのいわゆる真の“敵”とは―― つまり、ソビエト連邦。