第3章 ソビエト連邦へ: ソビエトの「現実」の発見; KGBとの格闘、キャリアの変更
   
1 モスクワへの道
2 ビル・モリソン事件   
3 ソビエトの現実
4 ロシアの共産主義
5 KGB と私
6 決意のとき
7 ソビエトから外へ
8 ボブ・ホーク

1 モスクワへの道

1962年末 再び移動の時
モスクワのオーストラリア大使館がようやく再開されていた。外務省内には私が数年前キャンベラ・ユニバ-シティ・カレッジでロシア語を勉強していたことを覚えている人がいた。私を中国へ派遣することは不可能だったので(恐ろしい中国にという敵地に大使館を開く勇気を出すには、まだ10年の月日が必要だった) それならモスクワへ行ってはどうか、ということになった。
 
当時モスクワ大使館のジュニア館員だったロブ・ローリーは翌1963年初め帰国の予定になっていた。その後任になるということである。そこで私はロシア語の勉強を再開した。―― 今度は教室でなく、自分でやることにした。

ことばの勉強
中国語の勉強を通して、ことばを覚えるためのテクニックを少々モノにしていた。教科書で習い始め、次に話す練習、そして最後に現地人の実際の会話を聞き理解するという従来の流れを、逆転させるのが私流だ。
 
私はまず、最初に「聴く」。その後で理解を助けるために教科書を見て、聴いたことを記憶させる。それから現地の人と会話の機会を持ち、それを記憶の中に定着させる。教科書は使うが、これはあくまでプロセスの脇役だ。
 
キャンベラ在住の白系ロシア難民の女性、ガパノヴィッチ夫人が快く手を貸してくれた。彼女は毎週やさしいロシア語の物語の本をテープに吹き込んでくれた。私は週の間にテープを繰り返し聴いて、一方テキストで語彙をチェックし、文法も教科書で調べる。一週間後に夫人とそのテープの物語について自由な会話をする。そして次のテープを受け取る。
(数年後日本語を勉強し始めたときも、これと同じ方式をとった。)
 
これはすべて泥縄式といってよかった。でもとにかく、こうしてモスクワへの長い道のりへ一歩踏み出した。 そして1963年4月私はついにアメリカ経由でモスクワへと旅立った。 

サンフランシスコのランド・コーポレーションで、私のためにブリーフィングが用意されていた。1961年のベルリン危機とキューバ危機は、まだ記憶に新しかった。いわゆるソ連の冒険主義に対するアメリカの考え方を知ることは私にとって重要だ、と説明された。
 
私が発見したのは、“邪悪な帝国”に対するアメリカの憎しみと猜疑心の深さ、これは官民を問わずのことだった。
 
ランド・コーポレーションのオフィスから、シカゴ行きの列車に乗った。これはまたアメリカの大きさと多様さと汚さの初体験の旅となった。
 
シカゴ中央駅近くのホテルに宿を取った。そこは安かった、そしてその理由はまもなくわかった: そこの掲示表記は全てスペイン語で、中には鍵の壊れている部屋もあった。
 
近くのバーに行くと、客もどことなく異様な感じである。飲み物代を支払うのに100ドル紙幣を出したとき、その場の空気が一瞬凍りついた。なぜか全員の目がサッと私に集まった。緊張で固まってしまったバーテンは、握りこぶしにつり銭をしっかりつかんで私に手渡しながら、耳元で警告を囁いた。“ここでこんな金を見せたら、命はないと思え。この釣りを持ってさっさと逃げろ。”
 
私には二つの選択があった。彼がほんとうのことを言っているのか。あるいは彼は、つり銭不足のごまかしの究極のテクニックを使っているのか。自分に向けられた部屋中の人々の顔をもう一度見回すと、答えはほぼ明らかだった。私は走った。つり銭は不足していなかった。
 
翌日、ニューヨーク経由モスクワ行きのチケットを手に空港に向かった。空の旅がまだ揺籃期だったその当時、航空券は搭乗の後でチェックされるのだった。一人のスチュワーデスが心配そうにパイロットを呼んだ。“これはお客様のチケットですか。”通路をやってきたパイロットは怖い顔で尋ねた。
 
私はそうだと答えた。“ここにはモスクワ行きとありますが。”と彼は一段と顔をこわばらせて言った。私は再度そうだといい、たまには他の人でもモスクワに行くことがあるではないか、と指摘した。“ええ、でもこれは片道切符だ!”彼は勝ち誇ったように言った。
 
オレは独力で、共産スパイを探り当てた、しかも自分の飛行機の中で。
 
自分はモスクワに赴任する外交官で、数年間は帰りの切符は必要ないのだと説明するのに結構時間がかかった。まだヨーロッパにも入っていないのに、もうすでに冷戦は私に覆いかぶさってきていた。

鉄のカーテンを越えて
ロンドンからモスクワのヴヌコーヴァ空港への航路は僅か3時間。だがイデオロギー的にはその距離ははるかに長い。ロンドンではその当時共産圏へ赴任する、英国と他の英領圏諸国の外交官に対して行われるお決まりの注意勧告とブリーフィング―― KGBのスパイ罠に警戒せよ、現地住民と親しくなるな、等々。そしてヴェヌコーヴァ空港の冷たい、惨めな、晩冬の空、通関ゲートの向こうにいる不機嫌な顔の武装兵士たち、それらはこのイメージを追い払う役には立たなかった。 

当時便数は少なかった。―― 週にたった3便。それでも機内は半分空席だった。みなお互いに疑いの目で周囲を見合っていた。 
 
だがこの猜疑心が溶け始めるのに、2~3週間で十分だった。モスクワの春が来た。地球温暖化も聞かず、工業化も知らなかったあの当時、モスクワ川に大きな氷が流れていく春への転換は、ドラマチックだった。
 
街を行く群集も、急に明るく色鮮やかになった。大使館の庭に腰を下ろし、大使館で働く大変感じのよい二人の女性(恐るべきKGBが親切にも派遣してくれた)と簡単なロシア語で話をしながら、隣の家の窓からは、“禁じられている”といわれた西欧のジャズが流れてくるのを聞いていると、私はいわゆる鉄のカーテンなるものについて、疑問も湧いてくるのだった。
 
香港に行く前には、中国の共産主義についてホラーストーリをあれこれ聞かされたが、実際には大きくちがっていた。モスクワについても同じことかもしれない。恐れられているKGBも言われているほど恐ろしくないかもしれない。
 
それとも、それは恐ろしいのかもしれない。ほんとうに恐ろしいのであろうか。
 
モスクワのオーストラリア大使館
オーストラリア大使館はモスクワ中央部に近い閑静なクロポトキン・ペリューロックにある。革命前は金持ちの砂糖商人所有の、どっしりとした二階建ての豪邸だった(現在もそうだ)。
 
わがオーストラリア外交陣営は小人数だ。老齢の大使、参事官ビル・モリソン、そして非常に若い二等書記官としての私、である。モリソンは1950年代はじめ、リチャード・ウールコットとともにロシア語を学んだ男だ。
 
モリソンとウールコットは、二人とも強い性格、愛すべき人柄だ。二人とも見習い三等書記官としてモスクワ滞在中にペトロフ事件に会い、1954年モスクワから追放されるという“名誉”の持ち主だった。そして二人とも後に独力でよいキャリアを切り開いた人物― モリソンはホイットラム政権では防衛大臣にまで昇進し、その後インドネシア大使に;ウールコットはホイットラム時代にはジャカルタ大使(インドネシアの東チモール奪回に対して陳謝する役割を演じた人物)とワシントン大使に。
 
モリソンはわれら3人所帯の大使館の実力ある長としての位置を容易に築いていた。また彼は一連のロシアの重要人物(ニコライ・フィリュービン外務副大臣や文化大臣エカテリア・フルテセヴァほか)と知遇を得ることも簡単にやってのけたようだ。また、インドネシアは、当時西側敵視の強かった本国の政策の一環でインドネシア大使館も西側人との接触を拒んでいたが、モリソンは、そのインドネシア大使館のナンバー2と親しくなったことで、モスクワの西側外交サークルでは重宝され、尊敬もされていた。
 
だが、われわれはその後まもなく、モリソンについて多くのことを発見することになる。
 
2 ビル・モリソン事件
今も覚えている。それは初夏によくある、とてもあたたかいモスクワの朝だった。― 6月はじめのある週末、全ての生き物と自然がゆったりとくつろぎ、陰惨な謀略とかKGBの陰謀などというイメージは、たった2~3ヶ月前に過ぎ去った寒い冬と同じようにまるで非現実に思えるひとときだった。
 
老齢の大使が電話をかけてきたとき、なぜか私は家にいた。すぐ大使館へ来るようにとの伝言。大使館のセーフルーム(西側諸国の大使館は全てこの種の大きな箱のような珍奇なからくり―― ソ連による盗聴を防ぐ電子機器防御装置―― をもっている)で大使は、震えの止まらないビル・モリソンと向き合っていた。
 
KGBが跳びかかった
モリソンの話によると、モスクワのロシア人の友人宅を訪問中、突然KGBが踏み込んできて、協力しないなら古着をメードに売った罪で翌日国外追放するぞ、といったとのこと。当時はなぜか古着を売ることは違法行為だった。それはスクリポフ事件への報復だ、と彼はいった。
 
たしかに、ASIO(オーストラリア安全情報機関)はほんの数ヶ月前キャンベラのソ連大使館のかなりの数のシニア外交官を醜い罠にかけて追放したのだった。モスクワがそれに対する報復措置として大使館の誰かを追放するのは時間の問題だということは、われわれみなが予想していた。そのターゲットがモリソンなのは想像に難くない。
 
それにしてもなぜこれほどまでにむき出しの形でやるのか。そして、なぜモリソンは、ターゲットになりうることを知りながら、予防措置をとらなかったのか? たとえば、彼はロシア人に会いに行くとき連れを伴なうなどの用心をせずに、、、。 
 
だがたしかに翌日のイズベスチア紙には、モリソンというオーストラリア外交官が古着を売る他の違法行為を働いていて、国外退去を命じられ、一週間の猶予を与えられてという小さな報道記事が載った。
 
キャンベラはすばやく反応した。直ちにソ連当局に対し可能な限り最高度の公式の抗議を発表。モリソンのいわゆる“罪”はスクリポフのスパイ・リクルート活動と比べれば取るに足りない。オーストラリアはソ連との関係断絶も考える可能性があった。
 
ところで、モリソンの話は真実だろうか。彼を知っている私としては、話はそれだけではないという確信のようなものを本能的に感じた。それに彼の話の中で、時間と場所に関していささか矛盾する点があった。私は大使に公式の抗議の発表を少し遅らせることを提案した。そうして数日間、あの窮屈なセーフルームの中で、集中的に聞き取り調査をした結果、次第に事の真相が、明らかになってきた。
 
モリソンは、たった一人で、ソ連の上層部の閉ざされた世界に踏み込む仕事を始めていたらしい。彼はフィリュービン/フルテセヴァとのコネクションを利用して、モスクワをはるかに外れた、おそらく外国人の自由な旅行が許されていない地域の森の中にある高級な別荘などで、作家や芸術家や高級官僚などが集まってパーティーを開き、お酒を楽しんだり、議論したりして親密な関係を築いているグループの中に入り込んだ。 モリソンがこうしたことを続けられたのは、彼がこうした人々の信頼を受けていたし、こうした人々からいわば西側世界へのインテリ的メッセンジャーといった役割を期待されていたからだ。彼自身も、スクリポフ事件に対する報復の危険を知っていた。けれどこうした高級な人々は、ケチくさいKGB陰謀などを超越した世界に住んでいるように思えた、あるいは少なくとも、モリソンはそう信じていた。
 
問題のその週末、メンバーたちは彼のために特別なパーティーを準備してくれた。―― ウオッカ、キャビア、チャーミングなレディーたち、おまけに泊りがけのイベントだ。だが、この二日がかりのパーティーが始まろうとしたそのとき、KGBが踏み込んだのだ。モリソンの高級な友人たちは、すばやくどこかへ姿を消した。
 
その後24時間というもの、かれは囚われの身となった。かれの活動を熟知していた連中からたっぷり絞り上げられた。彼がキャンベラに送っていたレポートの一部も暴露された。(おそらくこれはキャンベラ体制の中に入り込んだソ連のモグラによって提供された情報だろう。)
 
最終的には彼らはモリソンに二つの選択肢を与えた: 協力するか、あるいは翌日イズベスチア紙が、メードに古着を売った(彼がそうしたのは事実だが、それは自分のためというよりはむしろ彼女のためにしたことだが、彼女はKGBの親分たちに報告するという典型的行動に出たのだった)下劣な罪で追放されるというニュースを載せるか。彼はモスクワ中の笑いの種にされるだろう。彼のロシア・スペシャリストとしてのキャリアはいうまでもなく、外交官としてのキャリアはこれで終わるだろう。

彼の名誉のためにいうと、彼が正しかったのは、その後まっすぐ大使館に来て事件を報告したことだ。そしておそらく、私が正しくなかったかもしれないことは、彼から事の真相をもっと聞きだそうと食い下がったことだ。それは一つには、モリソン事件は実際には、スクリポフ事件と同等の重さだったかもしれないということを、キャンベラに理解させようと思ったからだ。(どちらの事件も女と罠が関係していた。)そうすればキャンベラが、はじめから終わりまで自分だけが正しいとあまりに威丈高になる前に少し考えるようになるかもしれない、と期待してのことだ。

不運なスクリポフの不行跡を巡っては、キャンベラがかなり愚かしい大騒ぎを演じた。今度はモスクワが演じる番だ。われわれみんながこうした罠騒ぎについてもう少し冷静になるべき時かもしれない。
 
それにしても、もしかしたらモリソンはやっぱり危険なゲームに加わっていたのかもしれない。彼はアメリカ大使館と非常によい関係を持っていた(彼の妻はアメリカ人)。そしてアメリカ人と英国人たちは、自国の人間を使うと注目を引くからという理由で、モスクワにいる英連邦の国々の人間を使うことを好むというのは、公然の秘密だった。また、モリソンが私に何度もほのめかしていたことは、詳しいことは知らないが、フィリュービンというやはり強いインドネシアコネクションを持つ男から裏切りをされているということだった。

モリソンは最近のオリエグ・ペンコフスキーのスパイ事件の詳細について深い関心を寄せていた。ペンコフスキーはソビエトの最高級官僚で、ソ連の軍事計画や思想に関するインサイド・レポートは、今世紀いちばんの特ダネ情報といわれた(彼はその後暴露され、処刑された)。モスクワにいた米英の高級官僚数名が、この事件に関係したとして追放された; 英国人についてはペンコフスキーの情報をチェックする要員を提供したという理由であったが、ロシア人の目から見れば、オーストラリアもまた、ソ連に対するスパイ活動では強固なアングロサクソン・ネットワークの一員とみなされている可能性は十分にあった。
 
ロシア・エキスパートのジレンマ
とはいえ、その週の終わりごろになると、私はモリソンに同情を感じ始めていた。来る日も来る日もわれわれは、彼がはまった罠の詳細について聞き出していた。(私は自分に対してもみじめさを感じていた。一週間もあの窮屈なハコ部屋に缶詰になっていることは、誰のためにも決してよいことではない。)
 
モリソンはこの間ずっと気丈に振舞おうと努めていた。だが話せば話すほど、彼は、ソ連エキスパートとしてだけでなく、オーストラリア外交官としても、自分の死刑宣告に署名を重ねることになった。ソビエト・ヒステリーのキャンベラが、彼がやってしまったことを許すことはありえなかった。
 
彼は、モスクワにいるロシア語を話す西側外交官全てが直面しなければならないジレンマにはまっていた。積極的にロシア人と会い話をしない限り、ことばを習得し社会のシステムを学ぶことはできない。ところがそれをやれば、KGBの注目を引くターゲットになることは避けられない。罠にはまる、そして見苦しい国外追放へ― それが容易に自然の流れになる。
 
英語を話すロシア外交官が、たとえばアメリカやオーストラリアから追放されることは、大した個人的悲劇ではない。国に帰れば、彼はおそらく、一種の英雄と見られるだろう。それから彼は、苦労して習得した英語力を活かして、他の英語圏の国へ派遣される(そういう仕事は多い)。
 
しかしモスクワから追放されたロシア語を話す西側外交官は、行く手に待っているのはしばしば破滅的な袋小路である。彼にはほかにどこかへ行ってロシア語を使える場所がない。何年も苦労してことばを学び社会を勉強してきた努力がすべて水の泡となる。
 
さらに悪いことには、自分がそんなにも懸命に知る努力をかさね、場合によっては愛着も持っている相手の国から、永遠に敵として烙印を押されるのだ。(モリソンは頑固な反ソ連タカ派ではなかった。)
 
このジレンマに直面して、いくばくかの人間は相手に屈してそのKGB加害者に協力することになるのはたしかだと思う。モリソンの名誉のためにいえば、彼はそのプレッシャーに抵抗した。
 
その当時ソ連の当局はなぜ、この自分で自分の首を絞めるように見えるやり方を許していたのか、私はいぶかしく思った。モリソンのような人間を容赦なくKGBにいじめさせておいて(その後では私自身がターゲットになったことを知った)世界中の外務省で、怒れる反モスクワのソビエト・スペシャリストを大勢生み出していた。彼らのやり方では、ロシアのことを学ぶ努力もせずソビエト人の誰一人とも知り合う努力をしたことがないからこそ信頼できると考えているような反ソビエト的強硬派を、西側の政府部内にたくさんのさばらせる結果になり、その拡大を許していた。
 
ソビエトは絶えず、西側はソビエトの現実を歪曲していると不満を述べていた。ところが彼らは、世界がその‘現実’を発見するのを助けることができる、まさにそういう人を落としいれ追放するターゲットにしていた。
 
適切に扱えば、関係改善のために大きく尽力できるような人々を、彼らはまさに反感を抱くようにさせていた。キャンベラに帰ればよいポストが待っており、キャンベラの反ソ・ヒステリーを修復することができるモリソンの例が確かにそうだ。
 
そして実際、もう一つのこのような例が、オーストラリアの代表としてモスクワに派遣された、ロシア語を話さないキャンベラの前モスクワ駐在大使キース・(スパッツ)・ウォーラだった。(ことばを話さない人間が最善の大使になるというキャンベラの奇妙な信念がこのときすでに完全に軌道に乗っていた。)
 
ウォーラは、モスクワがそれ以前のスターリン的な孤立から抜け出そうと必死になっているときに着任した。彼はソ連当局から手厚く良識を持って迎え入れられ、モスクワの非常に魅力的な芸術サークルと活発に交流した。大使として、またロシア語を話さない人物として彼はある程度、モリソンのような人間に加えられた陰険な罠に取りこめられる目にも合わずにすんだ。
 
ウォーラはキャンベラに戻り、高級官僚のポストを得て、オーストラリアの頑迷な反ソ政策を見直すよう開けっぴろげに呼びかけた。彼がモリソンのような扱いを受けていたならそれは起こりえなかっただろう。(だが、皮肉にも彼の親ソ的感情は強烈に反中国的な偏見と対をなしていた。彼はキャンベラの反中国ヒステリーの盛り上がりに一役買うことになった。)
 
しかし、後でわかったことだが、
KGBタイプの人間にとって、このことは単に、たてまえ論にすぎない。われわれロシア語組がその国を好きになったかどうかは彼らにとって関係ないこと。彼らはたった一つの罠仕掛けによって数え切れないほどの貴重な情報へ道が開けるようなレベルで仕事をしている。ペンコフスキーはわれわれ側がこのような成功を収めた一例だ。彼らも過去においては成功を収めた。だから、まだ続けていこうと決心しているわけだ。
 
その上、彼らの宣伝によって、モスクワに送られた全ての西側の外交官、とくにロシア語を話す外交官はまず何よりも反ソ的であり潜在的なスパイでのはずだということを、すでに彼らは教え込まれていた。そうでなければそもそもモスクワへ送る必要はない。彼らにとってはわれわれロシア語組は雑魚であり、消耗品であった。
 
おそらく、キャンベラのソ連外交官に嫌がらせをし、罠にはめるために派遣される
ASIOタイプの人間のちっぽけな精神の中にも同じ考えが生まれていたに違いない。私が知り合った前キャンベラ駐在ソ連外交官は、われわれのスパイは彼らのスパイよりもはるかに粗野で汚いといっていたが、そうであればひどいことだ。

3 ソ連の現実’
モリソンが去って、彼の後任(ペティブリッジという名の、まあまあ性格のよい人物)が着任し、大使館は元の日常のルーティーン業務に戻っていった。自分たち自身の管理以上に大したことをやるわけではなく、大使館のセキュリティに侵入しようとするKGBの相も変らぬ努力との、絶え間ないいらいらするような戦い、そのくせ、館のセキュリティに侵入するべく訓練され教え込まれたKGB提供のスタッフを大枚の予算の大部分を使って雇うこと、等々。 

私は一度、自分たちを雇ってくれた大使館に対して罠を仕掛けようと目を光らせるKGBの息のかかった工作員に囲まれた中で、報告書のタイプやビザの発券程度の仕事をするために、大金を無駄にして、
1ダース以上の、現状に不満のロシア語のできない凡庸なオーストラリア人をモスクワの真ん中に留めておく必要があるのか、という趣旨の質問をしたレポートを書いた。
 
それよりも、ここの業務全体を閉じてしまい、優秀な職員若干名をウィーンに置き、週一回かそこら空路モスクワに通わせホテルに宿泊させ、必要な領事館、大使館、報道業務を扱わせ、終わってまた空路ウィーンへ戻らせる方が、はるかに安上がりで安全で効率がよいのではないか、と私は提案した。
 
その間ソビエトは、キャンベラ駐在の大使館について同じことをやればよい。(その場合はジャカルタから飛来する)。その過程で、
KGBスパイやASIO探偵の大軍団が仕事を干されることになる。

ソビエトで自由に行動
どんな理由からか、私のあの傑作なプロポーザルに対しついぞ返事は来なかった。(あまりに多くの
ASIOタイプの人間が新たに職を求めざるを得なくなるからまずいというのがその理由であることは疑いない)でも、かまわない。その頃になると、大使館の中では、大使はもっぱらリタイアした後のプラン作りが主な関心事になっている中で、私はたった一人ロシア語ができる外交官として、かなり自由に計画を書く裁量をもつことができるようになっていた。
 
ことばの勉強は引き続き懸命に努力し、メディアをチェックし、ことばの勉強のためと情報集めのためにできるだけ多くの現地人と会い、そして大使館の潤沢な旅費を使って各地方を旅して回ることができた。大抵はオーストラリア政府の金で、自分を教育し経験を積み拡げるために、
2年間が私に与えられているのだ。
 
(そしてもう一つ、今ではボン近辺のミュンヘン郊外の秘密のロケット開発サイトで、森に囲まれて暮らしているという
Dを探し当てることもやりたかった。そしてとうとう発見した。彼女の夫はエジプトでロケットの秘密テスト業務に従事していた。そのことが後に大きな騒ぎになる。)
 
Dは子供がなく、大きなデパートのバイヤーとしてドイツ国内を広く旅しながら、かなり独立的な生活を築いていた。彼女は一週間一緒に旅して回ろうと私を誘った。彼女の小さなフォルクスワーゲンで冬のさ中ドイツを旅して回り、われわれは再びお互いを発見し深く知り合うことになった。Dは非常に魅力的で意志の強い女性に成長していた。)

(彼女はまた、われわれもう一度よりを戻さないかと私にほのめかしてきた。昔懐かしい気持にほだされながらも、イエスとは言えない自分があった。モスクワでのあまりにもちがう生活に、私は深く関わりすぎていた。)
 
(あの時イエスといっていたら今頃どうなっていただろう、と私はよく思うことがある。)

ロシア人との出会い
私がモスクワで自己教育の中心に据えてやりたかったことは、外へ出てロシア人と会うことだった。これは、あの冷戦当時多くの人が考えるほどには難しいことではなかった。また、最初はそれが世間のほとんどの人が思っているほど危険だと判断する理由も、私にはなかった。

私はモスクワ大学(
MGU)からほど遠くないレニンスキー・プロスペクト・コンパウンドの中の45号館に住んでいた。そのコンパウンドには外国人もソ連人も住み、モスクワ水準では悪くない快適な暮らしを享受していた。外務省関係の約束がない夜などは、私はよく外出し、近所にいくつかあった学生カフェに行って食事をした。
 
共産主義時代のあの頃は空いたテーブルに一人で座るのは非社交的とみなされた(人手が余計にかかるということもあったのかと思うが)。必ずといっていいほど私は他の客が座っているテーブルへ案内されるのだった。同席の相手は、今日は外食しようと勇んで出てきた学生とか地域の住民である。
 
ロシア人は人懐っこい民族だ。数分のうちに会話が始まる。みんなは私が誰か、何をしている者か知りたがる。自分は外交官だといっても、取立てて気に止める人はいない。飲み物を注文する。(ウォッカやビールが定番だ。ウォッカで乾杯しその後はビールで口直しが続く)料理は分け合うのが普通だ。
 
数時間後には、食物とウォッカで満腹し、またことばの練習とロシア社会への新たな発見という収穫もあって、外に出れば、たいていはモスクワの凍てつくような寒気の中だった。

テーブルの相手が学生の場合、すぐに突っ込んだ政治の議論が始まる。私に対しては彼らは、欧米社会で黒人が貧困と差別に抑圧されていることを認めるように迫ってくるし、その代わりに彼らは、自分たちのシステムのまずい点を批判した。いつも繰り返し聞かされるのは、彼等が目指すのは、現システムの欠陥を改めて、“真の共産主義”をもたらすことだ、という信念であった。

大半の人は、彼らのシステムは欠陥がいろいろあるとはいえ、われわれのシステムより優れていると確信を持っていた。そして、それは外部情報が不足しているからではない。当時の西側のプロパガンダは、ソビエトの政権は市民に情報の自由を否定しているというのだが、それはまったく正しくない。 大半の人々は、彼らのシステムは欠陥がいろいろあるとはいえ、われわれの欧米のシステムより優れていると確信を持っていた。そして、それは外部情報が不足しているからではない。情報があふれすぎて真剣な興味を鈍らせている欧米とはちがって、客観的情報は手近かにあり、よく研究されていた。
 
時々、
KGBらしい人間が窓からいらいらして様子を窺っているのを見ることがあった。
とはいえ、私に関しては、彼らは何も悪いことを仕掛けることは不可能だった。われわれが一緒に食事をしてしゃべっているというだけで、内に踏み込んで逮捕するというわけにもいかない。また、私の食事相手を突き止めて、彼らに私のスパイやらせるというのもあまり意味のあることではないだろう。われわれは偶然に出会っただけであり、二度と会うことはないのだから。
 
その何年後か後に、ミハイル・ゴルバチョフが、ペレストロイカとグラスノスチ改革を掲げて登場したとき、私はすぐに、彼がどういうところから出てきたかすぐ分かった。彼と妻は、私がモスクワに来たほんの数年前まで、同じモスクワ大学の学生だったのだ。彼らも必ずや、私がよく行った同じ学生のレストランに行っていたに違いない。彼らも必ずや仲間同士で同じような討論や議論をやっていたにちがいない。そして私が会った学生たちと同じように“真の共産主義”の理想をめざして、改革を求める気持ちを燃やしていたにちがいない。

劇場の夜
学生食堂以外にも、いきつけの場所はあった。その当時「現代劇場」は、当時進行中だったフルシチョフの自由化によって認められるようになり人気が急上昇中で、体制に多少批判的な演劇が上演されていた。私の得意技の一つは、そのある出し物を選んで切符を
2枚買う。外交官として演劇の切符は簡単に手に入った。だが一般のモスクワ市民にはかなり難しいことだった。
 
劇場の入り口に立つと、若い人とくに学生が切符を求めて私の周りに群がってくる。私は群衆の中を歩いて、とくに魅力的な女子学生を選んで、切符が余っている、と声をかけるのだ。たいていの場合相手の女子学生からとても感謝されたし、その後のコーヒーとかコニャックの一杯をよろこんで付き合ってくれるのだった。
 
こうして素敵な劇場でたのしいの夜を過ごすことができた。―― 魅力的な人との出会い、問題作の演劇を見て劇について充実した議論とくに政治的な議論をする―― それが切符一枚の値段で手に入る。そして、KGBの連中はたのしくない悪い夜を過ごす。この場合もまた、KGBの連中は一晩中私に手出しできない。私をずっと付け回したが時間の無駄だった。(ただし、彼らがその種の劇にもつき合わせられたことは、少しは彼らの政治教育になったかと思われるが)
 
郊外での一日
けれどももう一つ、ロシア人と自然に出会えるよい方法は“社会ハイク”(オブシェストヴェンヌイ・パホット)だ。金曜日になると、モスクワの夕刊各紙にはモスクワ周辺のおもしろいところへ行く週末ハイクのリストを載せる小さなコラムが出る。そこには集合場所の鉄道の駅名が出ている。私は小さなリュックを持って定刻にそこへ出かける。そこに集まってくるのは、老人や太った女性、若い教師、ほか自然愛好の市民といった雑多な混成のグループだ。われわれのリーダー―― たいていは時間の自由の利く公共精神旺盛なボランティア―― はわれわれを所定のプラットホームに誘導する。
 
モスクワ周辺の森や野原を歩き回りながら、私は、自分も週末のウォーキングを楽しむ普通の市民に過ぎないという風を装う。そうすることで、欧米の人間が自分たちのグループの中に侵入してきたと人々が知ったとき必然的に起こる騒ぎやめんどうを避けることができる。その上ロシア人が自分の生活や政府をどう思っているか本当のところを知ることができる。
 
その作戦はうまくいった。みんな率直に話をした。たまには私の顔や発音が、エストニアから来た人のように聞こえるという人もいた。私はそれらを、否定や種明かしはしなかった。

太陽の光と新鮮な空気とおしゃべりの後、われわれ一行は最寄りの駅からモスクワへ帰る電車に乗る。おそらくKGBは見張っていたのではないかと思うが、私の方からは彼らを見ることはなかった。

それから何年もたって、NHKのテレビで、これと非常によく似た若者たちのモスクワ周辺の夏の郊外散歩の、1972年ドキュメンタリーの再放送をやっているのを見た。(その頃は日本の国営放送NHKはもっと進歩的で、社会の実態を見せることに熱心で、使命感を持っており、共産主義社会に対しても例外ではなかった。)
 
そのドキュメントを見ていると、若いロシア人たちの顔は、シンプルな人生を天真爛漫に楽しんでいる表情をしていて、90年代半ばに再訪して見たモスクワの民衆の気難しい陰気な表情―― 貧困、競争、またその他の共産主義以後の社会の資本主義的イノベーションに立ち向かおうとしている表情―― のずっと以前の顔だった。

もう少しソビエトの現実
もう一つ、
NHKのソビエト時代のドキュメンタリー再放送では、北極海近くに住む住民のあちこちに散らばった居住地へ大きな客船が荷物と客を運んで、シベリアのまだ凍っているレナ川を下る、夏の最初の旅が取り上げられていた。
 
それは危険をともなう旅だった。その放送を見ていると、船長の献身的情熱とクルーの効率的仕事振りが強く印象に残った。私はモスクワ時代にはこのようなドキュメンタリーをたくさん見た。そしてこうした態度を当然のことのように思ってみていた。このような映画はたとえ政府のプロパガンダが目的で作られているとしても、ある程度の現実はおのずから現れているものである。
 
だが、
NHKの昔のドキュメンタリーを見ていて、社会へのサービスよりもお金を稼ぐ方がずっと大事になって今日のロシアに、これと同じ態度を見つけるのは非常にむずかしいことに気が付いた。この川の輸送はとっくの昔に廃止された。それら北極海圏居住地の大半は、保持されてきた希有な価値を持つ文化とともに失われた。自由市場と民間企業の論理はそういうものだ。
 
たしかに、この同じ地域に点在していた強制収容所も同じく廃止された。それはプラス面、大きなプラスだ。シベリアの旅の途中、私は
KGBのギャングらによってこうした収容所へ運ばれる囚人の一行に出くわしたことがある。一目彼らの顔を見ただけで、あるものはとても若く、どちらがより邪悪かすぐに見て取れた。それは囚人ではなく、それを引きたてるギャングたちの方だった。
 
もう一つの嫌な記憶は、若いバルト人のことだ。彼とはわれわれの大使館近くの外国語学院で知り合った。(私はよくそこのカフェテリアで昼食を取った)彼はバルト人の問題をふくめて生活一般について語るのを好んだ。そこのロシア人学生よりはるかにオープンだった。 

ある日モスクワ市内をドライブしていると、歩道から突然彼が現れて、私に手を振り車に乗せてくれといった。
KGBに追われているのだという。自分を乗せて大使館へ行き、亡命させてくれないかと。

われわれが反体制派の人間のために亡命を受け入れる仕事ができないことは明らかだった。そこで私は彼にそう話した。いっそうまずいことに、私はそのときも、例によって
KGBに追跡されていたのだ。どうしたらいいか考えながら、われわれは一時間ほどもその辺りを車で回っていただろうか。しまいには、地下鉄の駅で彼を降ろそうと決心した。願わくば、KGB連中が彼が地下鉄に消えるのを捕まえられないことを念じながら。その後彼がどうなったかと、ときどき考える。

あるいはあの出来事自体が、トリックの罠だったのかもしれない。もしそうだとすると、何が目的だったのか。
KGBのやり方は時にミステリアスだ。学生たちと話していてときどき、誰々さん― 普通はそれは優秀な学生の誰かなのだが― は郵便箱(パチタヴィ・ヤーシック)に送られた、という風なことを聞くことがある。これは私書箱番号でのみ住所が知られている秘密軍事組織のコード名だ。これから察するに、ソビエト工業の発展にとってこの頭脳流出が与える損失は膨大なものがあるに違いない。

4 ソビエトの共産主義
欠陥や問題は山ほどあるが、私が見る限り、ソビエト社会は機能していた。経済はまあまあ妥当な状態であった。店には、質はよくないことが多いが、品物はかなり潤沢に出回っている。大半の人は現政権に満足しているように見えた。社会は、生活は安定し、雇用はたとえ恣意的であるにしても、保証されていた。戦争の記憶のおかげもあって、愛国主義も自然なものだった。
 
自然な公共心があった。それはレストランで他の客と同じテーブルに着くことが自然なこととされているということばかりではない。ある週末にはアパートの同じ棟の住民が集まって、その辺を清掃することも行われていた。
 
共産主義は、ロシア人の生まれながらの共同体意識と保守主義にマッチしているように見えた。(ソ連統治下の他の民族にとってはるかに好もしくないものではあったにしても)
 
バスでは料金を集めるのに車掌を使ってはいなかった。オネスティボックス(善意箱)が置かれているだけだった。(このようなオネスティボックスを使っている国はほかに、私の知る限りただひとつ、日本だけだった。日本も共同体意識の強い社会だ。)オネスティボックスの隣にはよくおばあさん的な乗客が座っていて、このシステムでうまくすり抜けようとするようなならず者の若者たちを見張っていて問い詰めるのだった。
 
このような重要な細かい事実は、冷戦時代には、西側メディアや外交官たちの偏見を持ったレポートの中でほとんど現れることはなかった。
 
長所と短所
このソビエトのシステムは、しばしば短所と背中合わせであるが、ほかの長所もあった。
 
教育制度は優れていた。ソビエト的平等主義のおかげかもしれないが、ロシアは女性が、ウーマンリブ時代以前のあの当時、欧米女性に感じられたコンプレックスがなくて、相手の目をまっすぐに見る、世界でも数少ない国だった。

本屋は普通とても立派だ。ロシア人は非常に文字的教養のある民族だ。あるいは民族だった。テレビは、今日のつまらないトリビアとかセックス・ショーとちがって標準的な人気番組は、広範な一般的知識が問われるクイズ番組で、賞金はなく純粋に知的楽しみのためのものだった。売春はまれだったし、ポルノというものはなかった。キリスト教的反共産主義者がよく言っていた、ソビエト社会は反モラル的社会だという批判とはちがって、実際には大半の西側社会よりはるかにモラル的であった。
 
マイノリティーの民族は、彼ら独自の言語で新聞や文学の出版が認められていた。 ソビエト体制が崩れ始めた途端に、少数民族が簡単に分離できてしまった一つの理由はここにある。私が会った若くて教育のあるマイノリティー民族の多くは、ソ連邦の市民としてステータスを、条件付きだが、一般に受け入れる気持ちになっているように見えた。ここでもまた、“抑圧されている少数民族”というのは西側の宣伝のなせる業にすぎない。(たしかに、反ソ的ナショナリストとして頭角を現す人間も少しはいたが、そういう人々は早々と取り締まられた)
 
政権が唱えている社会平等ということもまた、おおむね実行されているように思われた;
みんなが相対的に貧しいという意味で同じレベルということではあるが。汚い共産党員
優遇は存在したが、まだブレジネフ時代のように、黒い影が社会に幅を利かせるほどでは
なかった。

わたしがソビエトの市民になりたいと思わないことははっきりしていた。各種の制約が私には我慢できなかっただろう。とはいえ、モスクワ時代は私の人生で最良の最も刺激的な時代の一つだったと、私はしばしば人にも語っているが、それは心底正直な気持からだ。社会を形成するためにイデオロギーが果たす役割について、たくさんのことを学んだ。そして毎日何か新しい経験やチャレンジとの出会いがあった。ただ街を歩き回り、ジャガイモの値段をチェックすることでさえ、意味があるのだった。
 
KGBに見張られることを別にすれば、資本主義世界が生み出すプレッシャー、インチキ・ペテン、浅薄なコマーシャルに対して絶えず自己防御で身を固めているわれわれにとって、それが必要のない集団主義社会に住むことは、ある種の、何か奇妙に慰められる思いがあった。 

スターリン主義の時代でさえ、一部の人が好んで“共産主義のモラル”とよぶ輝きがあったに違いない。スターリンの後継者たちの多くは、―― たとえばフルシチョフ、コスイギンなど―― 社会を改善しようと本気で努力していたと思われる。私はあるときグロムイコさえも好きになった。彼はしばしば強硬派だと切って捨てられているが、あるとき、彼の苦心の跡が見える精魂込めたディナースピーチを私が通訳をしなければならなくなったことがきっかけである。この非常に保守的なソビエト指導者の精神と誠実さを理解するためには、彼の自伝を読むことを強くお勧めしたい。
 
グロムイコの悪名高い強硬さは、一部は彼の個性による。しかしその他の大きな部分は、われわれ西側の強硬派のやり方の悪さ―― 1918年ロシアの内戦への欧米・日本による干渉、アメリカが前のナチスを喜んで抱き込んでいること、朝鮮やベトナム戦争でのアメリカの行き過ぎ、ベイ・オブ・ピッグス(キューバへの攻撃)事件、米英の強硬的冷戦政策など―― 二対する揺り戻しでもあった。西側の良心的な人々でさえ、こうしたことを、単なる的はずれと簡単に片付けてしまいがちだ、なぜなら彼らは、こうしたことを引き起こした歪曲された背景を知っている(あるいは知っていると思っている)からだ。彼らは、それらのことがわれわれ社会の本質的な欠陥を反映していると思いたくないからだ。

しかし、鉄のカーテンの反対側の良識ある多くの人々は、これをわれわれの制度の根本的な欠陥と基本的な腐敗の証拠だと見ていた。グロムイコのような慎重派超保守派には、それらはわれわれ側の究極の悪を証明しているものであった。

逆に西側で多くの人がソビエトの究極の腐敗の悪のあらわれと見ているスターリン主義者の追放と東欧への介入は、グロムイコのようなソビエトの強硬派にとっては、最悪のものでさえ、システムの逸脱にすぎないものであり、時には正当化さえできるものなのである。

(ベトナム戦争に反対した私の議論の中で最もわかってもらえない不毛な努力の一つは、西側を改革のモデルとして使おうとしているベトナム現地の進歩派の信頼性を否定することによって、あなた方は結局共産主義政権に加担しているのですよという主張だった。われわれの強硬派にとっては、第一にベトナムに進歩派というものは存在しないし、さらにこれらの政権には改革の可能性は全くない、のであった。) 
 
(いま述べたような偏見が現実に活動している冷戦的反転のこのミラーイメージ(鏡像)に関しては、個人的に非常に心動かされた話があるがそれについては、読者は別途私がオデッサからの汽車の中で出会った年配のロシア人の話を読んで欲しい― (私のウエブサイトで「ロシアにおける西側の以前の暴虐」というタイトルのクヮドラント・マガジン・レターを参照)
 
また私は戦時中にロシア人が受けた犠牲に対して深い同情を抱くようになった。さらに、われわれ欧米の人間が、彼らのこの苦難をほぼ完全に無視しているだけでなく、このようなことが二度と起こらないような外交政策を追求しているモスクワの願いに対してほとんど完全に無視して平気でいることに憤りを感じている。当時ソビエトのごくごく穏やかなユダヤ人差別に対する非常に耳障りな攻撃(マラヤの架橋に対するもっと大きな差別については非難はあまり聞かない)は、ソビエトの戦時中の膨大な犠牲がなかったとしたら、今頃ウラル山脈から西にはまたおそらく東にも、ユダヤ人という人種はひとりも残っていなかったのではないかと考えるとき、胸が痛み平静ではいられない。
 
同じようにバイアスがあるのが、投獄あるいは追放あるいは精神病棟に入れられた
20人そこらのソビエトの著名な反体制派の受難に対して、われわれの西側イデオローグたちが不平をいっている現象だった。まさにその同じ時に、ラテンアメリカでは何十万という反体制派や進歩派が、その大部分のケースはアメリカの承認や後押しを受けて、逮捕され殺害されたことについて、われわれのイデオローグたちから一言でも不満が聞かれただろうか。もちろんノーだ。
 
イデオローグであるということは、決してまちがいましたとはいわないことを意味する。
 
ソビエトの政権は少なくとも、反体制派の命を奪うことなく何らかの形の裁判にかけた。チリやアルゼンチン、また他に若干の国では、彼らは残酷に拷問され、死に至ることもしばしばで、彼らの破壊された遺体は飛行機で遠くの海に落とされた。彼らから見たら、精神病棟は王宮にも思えただろう。
 
グアテマラやエルサルバドルでは、いっそうひどかった。反体制派の村を抹殺するために雇われた殺人部隊たちにとって、さらによいことは、小さな子供は殺す必要がない、それがよい収入源になることを発見したことだった。子供をアメリカの家族に養子として売ればいい金になるのだ。
 
(以前
CNNはこうした子供の一人が12歳の時に全員アメリカ人の‘家族’から取り上げられてエルサルバドルへ返された“悲劇”について扱ったドキュメンタリーを放送した。村が襲われたとき子供の母はゲリラ軍に入って近くの丘陵地帯にいたことが判明したためだ。数年後紛争が終わったとき、彼女は自分の子供の居場所を追跡調査し、突き止め返還を要求したのだった。)
 
CNNはほんとうの悲劇― アメリカによって訓練され装備を提供された軍隊が、その村や他の多くの村も同じように虐殺したこと― についてはほとんど語らない。)
 
その間一方では、われわれの反共主義者は西側の民主的モラルの優位性を強調していた。われわれのリベラル派といえども、似たりよったりだ。この種の不公平な偏った見方をほしいままに自己拡散を許している民主主義のモラル主義自体に何らかのねじれがあるのだろうか。ソビエト人や彼らのグループは、最悪の場合でも、このレベルまでの野蛮性にまで落ち込むことはなかった。
 
その上、モスクワはすでに
60年代から、それ以前の悪から抜け出そうと努力していたことは明らかだった。欧米では、ハンガリーやチェコへのソビエトの介入について大騒ぎしている。だがこれらの決断は、やるかやらないかギリギリの決断の結果であり、殺害も限定的といえる。それに比べると、当時のギリシャ、マレーシア、ベトナム、ラオス、グアテマラ、その他の地域での西側の介入の行け行けどんどん調の介入は、はるかに残酷で趣を異にしていた。 
 
もしフルシチョフの自由化政策があれ以後も続いたならば、ロシアは一世代の間に、スカンジナビア・スタイルの社会主義を実施する適度に自由な社会に発展していたかもしれなかった可能性は大いにある。

だがご承知のように、両陣営ともタカ派が、こういうことは断じて起すまいと腹をくくっていた。われわれはゴルバチョフが現れるまで待たなければならなかった。そして、そのときはすでに遅かったのである。

共産主義の諸思想
ここで少し横道にそれてみたい。
 
今日では、共産主義の例としては、中国、北朝鮮というニ極端そしてその中間にベトナム、ラオス、キューバ、という図式に限定されてしまい、
80年間にわたった異なった社会システムを作る試みについてまじめに語ることが難しくなっている。現在はそれを語る時でも場所でもないのかもしれない。
 
ただ、長年にわたる反共的宣伝、批判、ヒステリーが見落としてきたことは、これは基本的にはユートピアのイデオロギーを実現しようとした試みだった、ということ。それは人々に、今日の自由と富をいく分か自発的にあきらめて、将来のよりよい社会づくりに備えさせようというものだ。理論的には少なくとも、その思想は人間のより全的な部分を求め、他人のためを考える本能に訴えるスタンスのもの。それが悪いというなら、われわれも修道院やヒッピー・コロニー、赤十字、救世軍、ボーイスカウト、ほか多くのボランティア組織を明日にでも閉鎖しなければならないことになる。
 
しかし、あらゆるユートピア社会で、反逆者が問題を起す。ある程度までは彼らは大目に見られる。だが彼等がその体制(システム)の仕組みを脅かすようになると彼らは組織から追放されるか、何らかの形で黙らせられる。(因みにこれと同じことがあらゆる自尊心の高い修道院やヒッピー・コロニーにも起こるのであり、たとえばボーイスカウトはゲイを容認しない。)しかしだからといってこれでユートピア・イデオロギーが価値がないという証拠になるかといえば、そうではない。
 
ところが、こと共産主義に関しては、こうしたことはわれらが反コミュニスト・イデオローグたちにあまり影響を与えないらしい。一つの政権が自分なりの方式のユートピアを作ろうとすると、それは何かの理由で悪と決めつけられ、そのユートピアに反対する反逆者に対する扱いが、悪の確かな証拠だとされる。そうした政権に揺さぶりをかけ反対しようとするわれらがイデオローグたちの努力は、現地の反逆者のためにも事態を悪化させることになり、それがさらにわれらがイデオローグたちに新たな食餌を提供することになる。
 
たしかに、ソビエトのコミュニズムは、それ自体にいくつかの問題点があった。ソビエトのイデオローグたちは、社会が自分たちの求めたユートピアの美徳から最初に転落したことの罪を資本主義のせいにして、経済に多大なダメージをもたらした。今日の中国は、多分行き過ぎかもしれないとはいえ、最初のユートピア理想に過大なダメージを与えることなく、若干の資本主義を適用することは可能であるのはたしかだ。フルシチョフは倒される前には、徐々にその方向へ動き出していた。
 
ところが、一番の問題は官僚主義と呼ばれる悪である。どの社会にもそれはある。だが、それがイデオロギーによってバックアップされる時、悪と腐敗がまかり通り、囲い込みが行われることになる。パラサイト(寄生動物)と同じでそれは自分を生み出した社会自体を簡単に殺すことができる。今日、誰でもいい、物を考えているロシア人に聞いてみるといい、ソビエトは外からの冷戦的圧力からというより、むしろブレジネフ時代の官僚腐敗によって、崩壊したのだと彼らは答えるだろう。

もう一つの問題は、少なくとも政権の初期段階において、専制君主や強硬派がコントロールする場合のやり方だ。 熾烈なイデオロギー的、革命的闘争から生まれた社会(イランがもう一つの例だが)全てに共通することだが、残酷で容赦のない勢力がトップに上り詰めるのは容易である。彼らはイデオロギーや、革命の苦難を口実に、自らの権力の濫用を正当化することができる。対抗勢力たちは、闘争の純粋さの故に、権力の濫用ということはあるはずがないという考えから、ガードをはずしてしまう。(私が後にオーストラリアの中国
/ソビエト/日本研究者、政治家マフィアというミニ・スターリンたちから受けることになる苦労はこれと似たような問題だった。)

さらに悪いことが待ち受けていた。こうなるとわれわれ自身の側の強硬派は次には、自分たちの権力固めのために革命政権の権力濫用や過ちを利用して、相手側の悪に対抗する必要を主張する。われわれ西側の反共主義者はスターリン、毛沢東、その他の共産主義革命指導者の罪を利用して、自分たちの反共的政策を正当化するばかりでない。これを口実にベトナムからラテンアメリカまで世界中のユートピア的コミュニスト理想主義者たちの大規模殺戮をも正当化した。もともと。これら殺戮はあらゆるかたちの論理、良識、人間性に対する暴虐と言う見方をすべきものだった。なぜなら、そもそも共産主義国で強硬派の権力掌握を許さざるを得なくさせた、もともとの革命の苦難をもたらしたものは、われわれの側のイデオローグやマニピュレーターがその原因を作ったという部分が大きかったのだから、なおさらである。

結果には原因があるのが普通だ。われわれのイデオローグはそのことを決して理解できないらしい。
 
しかし、このような議論は、
196070年代のヒステリックな反共時代には、われわれのいわゆる穏健派に対してさえも何らかの影響力を持ちうると期待してもむなしかった。ベトナム戦争の無意味な暴力を経てはじめて、良心のかすかな光が多少得られ始めたのだった。
 
欧米の、主にアングロサクソンの精神の中には外交において論理的な分析を妨げる何かがある。数年後私はやはり日本人の精神の中にも同じものを見ることになるが、その二つは同じ理由によるものではないかと思われる。

5 
KGBと私
私は長いこと
KGBに狙われ続けた。これは独身で、ロシア語ができ、街に出て多くのロシア人出会おうと心に決めていた外交官にとって、避けられないことだろう。モスクワに着いた第一週目で、魅力的なブロンドの女性が、KGBに厳しくガードされているはずの私のアパートまでやってきた。私の前任者を探しているという理由で。
 
さまざまな姿をした
KGB工作員に絶えず追跡され、とくに地方へ出かけるときはそうだった。電話は盗聴されていた。時には、一時間かそこら前に電話で約束した友人との待ち合わせ場所に怪しげなKGB風の人間がブラブラしていることもあった。奇妙な場所に奇妙な人間が私をウオッチするために配置されていた。 そして他のみんなと同じように、部屋の壁には盗聴器が取り付けられていることは、想定せざるを得なかった。 
 
一度私は外交官同僚たちに、全員が私と同じことをしたら―― つまり始終外出しソビエトのいろいろな人とよく話をする―― KGBはあまりに労働過剰になって、モスクワで平常通りの生活をしようとする私みたいな人間の一人や二人に集中する余力がなくなるだろうと提案してみた。
 
そのアイディアはすぐさま却下された。同僚たちは安全な外交官用のさなぎの殻の中に入っている方が、自分自身も安全だし、国許に帰ったときも、よい暮らしのために手当てもたくさん出るほうがはるかによいということだった。
 
アゼルバイジャンの首都バクーに行ったとき、私は行程を逆戻りにして、こうした
KGB工作員の一人―― アゼルバイジャン人だったが―― と対峙することに成功した。私は彼に、君はなぜ私の後をずっとつけるような、こんなキタナイことをやるのかと尋ねた。彼はすぐさま反発して、われわれ西側の人間はなぜこんなキタナイことをやっているのかと反論してきた。無意味な冷戦対決の説明として、それは私が出会った他のどんな説明と比べても遜色あるものではなかった。

たかまるプレッシャー
1964年の終わりに近づくと、通常2年の私の勤務も終わりに近づいた。KGBの監視も常にもまして激しさを加えた。大使館で働くロシア人の態度も緊張して厳しくなった; 彼らはとくに私に集中するように命令されているように思われた。私がモスクワの中心や周辺を車で出かけるたびに、4台のちがった車に各々3~4人の工作員が乗って、追跡してきて、私が彼らに気がついたと悟るやいなや、彼らは車と人間を順繰りに入れ替えるのだった。
 
一旦KGBが君にネジを打ち込んだが最後、その重圧たるや外の人には到底わからない。がっちり支配を固めた2億人の社会が一丸となって君を落とし穴に落としいれ傷つけようと待ち構えているかのようだ。走ることも隠れることもできない、逃げてもムダだ。君の一挙手一投足が監視されている。それなのに君はまるで何事もないような態度で行動しなければならないのである。

ついに、私にかけられた圧力はクライマックスを迎えた。1964年12月凍てつくような寒い夜、郊外のポドルスクという貧相な工場町で、私に罠が仕掛けられた。よい友達だったヴォロージャ・ニキチンが餌だった。

罠はほとんど私をつかんだ
私がヴォロージャに会ったのは、1年かそこら前のこと。例によって、学生たちがたむろする食堂に出かけた折だった。私が相席するように案内されたテーブルに、彼と魅力的な妻イリーナが座っていた。彼がKGBの犬どもの手先でないことは、最初から明らかだった。何よりもKGBはその夜私が外で食事をすることを知っているはずがないし、どの食堂へ行くかはさらにわかるはずがないからだ。
 
ヴォロージャは非常に気持のよい率直さとプロレタリア的な天真爛漫さを持っていた。エレーナは少し気取ったところがあったが、おしゃれな、でも温かい人柄だった。われわれは即座に意気投合した。
 
私がそれまで会った大方の学生と同じで、彼らは適度に愛国的だった。とはいえ、ソビエト体制の欠陥を指摘することも好きだった。そして事態が早く改善することを望んでいた。とくに、彼らが大半の学生が暮らす劣悪な環境について、ズバリ語る態度が印象深かった。
 
いつもなら学生カフェで食事が終わると、「さよなら」と別れるのが私のやり方だった。だがこの二人とは、何か共感するものがあった。例によってウォッカの乾杯を繰り返した後、また会おうということになった。彼は金属工学を学んでいて、彼女は政治学だった。
 
次の夕食会のとき、私は大使館の規則に基づいて連れを伴って出かけた。私の連れはやや控えめなおとなしく品のある英国女性、大使館でベビーシッターとして働きながら、ロシア語に磨きをかけるためにモスクワへ来た。彼女はことばや社会に対する関心が強く、私と共通する面があり、以前から親しくしていた。われわれ4人は、もう一年以上前から月に一度くらいのペースで夕食をともにし、会話を楽しんでいた。われわれはとても気が合っていた。

(一度私は、1956年のハンガリー事件について彼に尋ねたことがあった。“あいつら豚ども(ズヴェローチェ)”と彼は言った。後でわかったことは、彼の友人の一人がハンガリー革命派の手で、目をえぐりとられたのである。革命派がそういうひどいことをする何らかの理由が彼にあったのかもしれない、と私は示唆してみた。)
 
(ヴォロージャはたくさんのよい点があったけれども、自分たちの蛮行は構わないが相手側のそれは許せない、という世界共通な症候群にかかっていた。)
 
KGBが、われわれの夕食会を監視しているかもしれない、とは気がついていた。それについてヴォロージャと議論さえした。とはいえ、われわれは単に、時々会って一緒に食べたり飲んだりおしゃべりしたりを楽しむだけのグループだし、彼にしても彼の妻にしても、学生として秘密めいたものは何もないのは明白なこと、とわれわれはみな安全だと信じていた。
 
たしかに、1964年10月のフルシチョフ失脚とともに、タカ派と彼らのKGBグループの輩が権力を取り戻したことは、わかっていた。(西側とのデタントを達成し冷戦を終わらせようとするフルシチョフの誠実な努力を挫折させるために、何でもありで実行したアメリカのタカ派のおかげで、ベイ・オブ・ピッグス―キューバ危機、U2型機飛行、等々) とはいえ、このころまでは、エレーナはウクライナの上級軍人の娘だということも私は発見していた。このことは、KGBの犬たちのインチキ業に対する一種の保証になるのではないか、という考えも私にはあった。
 
1964年の暮れも押し迫った頃だったか、ヴォロージャは挙動がおかしくなった。私に電話してきて、急な話があるから食事をしながら会いたいという。彼はJが英国へ帰ったことは知っていた。われわれは会った。エレーナは一緒じゃなかった。
 
しかし私は、わざわざ英国大使館の知り合いの女性を、立会人として連れて行った。ヴォロージャは、予想していなかった女性があらわれて、ちょっとギョッとすくんだ様子だった。大学を卒業した後就職口を見つけるのが難しいことについて少し話したあと、われわれは別れた。その時のわれわれの会合は何か非常に不自然なものがあった。私はすでにそのとき、KGBが彼を動かしていることを疑い始めた。
 
しばらくして、その英国人女性から、大使館がヴォロージャは何者なのか知りたがっているので調べてくれ、といってせっつかれた。英国の連中がセキュリティに対して非常に敏感なのは知っていた; 彼らは、ほかの一連のペコフスキー流の反ソビエト的インチキ業に、首までどっぷり浸かっていた。けれども私は、自分がその女性を罠に引き入れようとしていると見られることが嫌だった。そこで、もう彼女を今後の夕食会合に連れて行くのはやめようと決心した。

それからまもなく、またヴォロージャから電話があった。今度は彼は友人がパダルスクでパーティ-をやるのでそこで会おう、といってきた。その時は、彼の声は前にもまして、いっそう異様に聞こえた。何かが仕組まれていると、私は確信した。

パダルスクの一夜
私の問題はこうだ。もし私が彼に会いに行けば、自分自身をKGBの監視にさらし放題にすることになる。しかし、もしヴォロージャがKGBの圧力で行動しているとすれば、私が行かなかった場合、彼が窮地に陥ることになる。
 
彼の将来のキャリアはもうすでに、ある種の脅威にさらされていた; 彼はすでに卒業していたが、今もって職を与えられていなかった。それがさらに悪くなる可能性が十分あった。そしてそれは、彼のせいというより私の責任だ。なぜならこの危機的状況の中に彼を引き入れたのは私なのだから。
 
私は駅へ行ってみることに決めた。そして彼に、どんな話があるのか聞いて、すぐモスクワへ帰ってこよう。KGBに対する警戒心は万全にした上で、だ。そのようにすれば、彼の援護は確保されることになるだろう。というのは、彼は品物を配達するという役目を一応果たしたことになる。たとえそれらの品物が押収されなかった(最終目標は達成されなかった)にしても。私の方もKGBの監視を終わりにすることができるかもしれない。
 
その駅で、ヴォロージャに会った瞬間、何かが確かに動いているとはっきりわかった。彼は不自然に熱のこもった、甲高い声で、一緒にパーティーに行こうと私に迫った。でもその前に、駅のトイレに行かなければならない、という。そこで突然、彼は低い声で、私に対していった。― お前は私の敵だ。
 
数秒たって私はようやく気がついた。; 彼は私にKGBの罠を警告しようとしていたのだ。
 
どうしよう! おそらくKGBは、われわれがパーティーの場に入ってから手入れに踏み出そうという計画だろう、とあらかじめ私は判断していた。とはいっても、われわれはもうすでに、駅周辺に配置された工作員たちの密着監視下に入っているのを感じた。もし私が、初めの計画通りに回れ右をして、モスクワへ戻る列車に乗ろうとすれば、われわれ二人一緒に手入れされてしまう可能性が大きい。彼らは秘密のドキュメントをヴォロージャの手に握らせ、その上で私がその文書を受け取るためにわざわざこの辺鄙な場所まで来たと言い張る― KGBの常套手段だ。
 
それに彼らは、ヴォロージャが私に何かを警告しようと図ったと見るだろう。それもまた、彼のためにはまずい結果になるだろう。そこで私は決心した。彼の招待を受け入れて彼と一緒に駅を出るふりをする。そして、そのいわゆるパーティーへ行く途中のどこかの地点で、何か口実を見つけて私はいきなり回れ右をし、残ったヴォロージャは暗闇に消えることができれば、奴らはわれわれ二人とも一緒に手入れすることは時間的に無理になるだろう。
 
その作戦はうまく行った。だがモスクワへの帰りの電車の中で、私はどうしようもない震えに襲われた。

自己反省
モスクワのアパートに無事帰り着いて、私は自分を振り返ってみた。(日本語で反省― 自己を省みる; だがそれは、もっと深く過去に遡って、自分の誤りとおろかさを分析することだった。)そこに見えていたものは、自分でも好きになれないものだった。

外交官というさなぎの中の生活で私は、柔に、めめしくもなっていた。ほんの数時間前、自分はある汚い駅のトイレで
KGBの罠に危うく落ちかかっていた。そして非常にいい友達だった二人の人間の人生に大きなダメージを与えてしまった。

モリソンを罠に陥れたと同じような自己過信の罪を、私も犯したのだ。そもそもポドルスク遠出のリスクを初めから悟るべきだった。なぜ自分は行ったのか。目的はヴォロージャを助けるためだった、と自分に言い聞かせた。とはいえ、灯に集まる蛾のような要素もあったかもしれない―― 
KGBの危険性と戯れようという愚かな無謀さ。

なぜそういう気になったかといえば、彼らは一体私に何で手出しができものか、という思いがあった。私はいかなる反ソビエト的な計画にも加わっているわけじゃない。それは彼らもわかっているはず。それで彼らは、私を脅すためのいかがわしい写真を持っているわけでもない。また彼らが私を国外追放しようとしても意味はない。なぜならそれは単に、キャンベラが対抗措置をとり、ソビエト外交官を追放するだけだから。彼らが私という個人を特定して取り上げることができる点は、私がヴォロージャと友人関係にあるということだけだ。

たしか彼らは、私を何らかのエージェントとして引き抜くことはできただろう。だがそういう提案があったとしたら、私の答えはもう決まっていた。私は単に彼らと同席し、政治的状況について議論するだけだ。―― ベトナム戦争、彼らの就職状況、等々について。その過程で、彼らを冷戦的頭脳構造から抜け出すように、教育することだってできるかもしれなかった。その過程で、こちらも、
KGBがどのように機能しているかについて、何らかの知識を得ることができるかもしれなかった。

ポドルスクの一夜はその種の幻想に終止符を打った。辺鄙な駅のトイレの中で、親しい友人に自分を敵と呼ばせ、裏寂れた工業地帯の町の冬の暗闇の中に姿をくらまさせるように追い込むことは、おもしろくもないし、教育的でもない。私の罪は単に、自信過剰というばかりではない。私ははなはだもって未熟だった。

自分自身を、モスクワの社交界に通じロシア語も堪能で社会のトップに身をおき将来も外交の輝かしいキャリアの道が開けた、新進気鋭の外交官と思い込んでいた。ところが
KGBの海千山千のタフガイにとって、私は機会があり次第跳びかかり貪り食うべき西側外交官という生肉にすぎず、CIAASIOなどの強者がソビエトの私のカウンターパートを、ジューシーな生肉と見ているのと同じことだ。一体自分は、ほんとうにこの無意味な共食いゲームの犬どもに何時までも付き合っていたいと思うのか。

決意のとき

新しいキャリア
?
私のキャリアは十字路にさしかかっていた。
 
28歳というしごく若い年齢で私は、同僚の幾人かに先駆けて、すでに一等書記官に昇進していた。キャンベラからはすでに、ニューヨークの国連軍縮委員会のオーストラリア代表マイケル・クックの後任として、モスクワからニューヨークへ、直接赴任して欲しいと依頼を受けていた。
 
それは、とくに私のような若者にとって、名誉あるポストだった。(クックはすでに飛ぶ鳥を落す勢いで、後にはキャンベラのトップ外務官僚の一人として、駐米オーストラリア大使も務めた。) とはいうものの、それを受ければ、さらに
2~3年を外交官の儀典や無意味なカクテルパーティーや息苦しい私生活という人工的なさなぎの中で過ごさなければならない。
 
それに、そうなれば、おそらく今後も
KGBのスタント業にも耐えなければならないかもしれない。CIAの中の彼らのミラーイメージ(鏡像)もそうであるように、連中はひとたび君を標的として視野に入れたが最後、決してあきらめない。
 
また、ベトナム戦争がヒートアップしつつあった。すると私は次第に醜さを増しているキャンベラの外交政策を代表し、弁護しなければならなくなるだろう。私は本当にこれからの人生をこの種のナンセンスの一翼を担って行きたいか。ニューヨーク赴任というプレスティジを忘れるべきではないのか。これは私が再出発をする、この仕事を離れて全く違うことをするべき時かもしれない。それをやるのに、私はまだ十分に若い。
 
モスクワの
2年間を務め上げて、一路オーストラリアへ、そしてそこで新しい生活をはじめることができる―― 官僚主義や外交と関係のない生活を。
 
ベトナム要因
私の決心を促したのは、何よりもまずエスカレートするベトナム戦争の恐怖だった。アメリカはつくり上げたトンキン湾“事件”を口実に、北ベトナムへの爆撃を恒常化させていた。キャンベラは諸手を上げてそれを応援していた。
 
オーストラリアのベトナム政策に対する理屈は何か。いわく: ベトナムにおける戦争は、中国の南方進出の第一段階として、太平洋とインド洋の間を南方へ進出するために、中国によって火をつけられた、というもの。ほんの数ヶ月前われわれは、キャンベラからベトナムに関する指示を受け取った: ベトナムに関して、ソビエト外務省を訪問して、ベトコン・ギャングの邪悪性を国際的に糾弾する必要があることをモスクワが認識できないのは遺憾である、とオーストラリアは考えている、またこれに対して、国際的に糾弾する必要があることを伝えよ、との指示だった。だが、北京ではなくモスクワが、ハノイの主な支持者であることは、すでにその時明らかだった。そして、モスクワで出会う北ベトナム人学生たちは、親中国というより、明らかに親ソ連的だった。
 
たしかにベトナムについて、私自身よく知らなかった。
(数年前に乗ったプノンペンからサイゴンへ行くバス―― これがいわゆる平和なメコンデルタを横断する最後のバスになった―― に乗ったことを除けば) だがわがアジア音痴の官僚たちは、私よりもさらにベトナムを知らないのはほぼ確実だった: 当時はベトナム語をひと言でも話せる職員は一人もいなかった。
 
ベトナムの状況は1949年以前の中国における状況とよく似ていることは知っていた。そこでは欧米諸国は、国内で反対勢力が高まっている腐敗した無能な政府を無分別に後押しした。そうすることで、強い民族主義と明らかに求心力の高そうなイデオロギーに支えられた、モチベーションの高い、よく組織されたゲリラの勝利を確かなものにする結果になった。
 
ベトナムでも同じ力学が働いているだろう。だが、ベトナムは中国より格段に小さい国だ。だから今回は、ゲリラや農民の大半は過酷なアメリカの介入で一掃されてしまうだろう。何とかしなければ、という義務ははるかに大きい。

ハスラック茶番劇
ベトナムをめぐる私の憂慮をよりいっそう深めたのは、オーストラリア外務大臣ポール・ハスラックの10月のモスクワ巡礼という茶番劇だ。彼によると、ベトナムに対する中国のいわゆる拡張主義的野心を止めようとする西側の試みにロシアも同調するべきだと説得するために、モスクワに来たとのこと。われわれは全く直前になってコスイギン首相とグロムイコ外相との会談をアレンジするように指示された。
 
(このときの異常なエピソードについては、私のウエブサイトで「驚嘆すべき風景―オーストラリアはいかに世界を感化するか」(1979年3月のナショナルタイムズ記事)と「ベトナム、中国そしてオーストラリアの外交問題ディベート」の中の私の章をぜひ見てほしい)

クレムリンのまん中で、あの定番の緑のラシャのテーブルを挟んで、ハスラックと並んで座りながら、オーストラリアの物知らずが、自分自身地理学の正しい知識もないままに、自分とオーストラリアの恥をさらけ出すためだけに、モスクワの二人の首脳の貴重な時間を占領してここにこうして座っている、その語りを聞いていると、一体自分はこの種の世界にいつまでも残っていることを本当に望んでいるのか、私は自問し始めた。

(しかしながら、何年も後になって、マルコム・フレーザーを通して、この奇妙な出来事は私が思ったほどには、愚かしく、エゴティスティカルにハスラック的ではなかったのかもしれない、ことを発見した。―― つまりそれは、アメリカの扇動に乗った可能性があったのだ。

(ワシントンはキャンベラの荒唐無稽な信念― つまりベトナム戦争は北京が考え出しコントロールもしている戦争だという信念― を共有していた) ワシントンはまた、通俗的な知恵―― その当時中ソ論争は4年目に入っていたが、その論争は共産主義の穏健派に傾いているモスクワが、その過程で、本質的に戦闘的な中国との対決を余儀なくさせられていることの確実な証拠だ、というもの―― を信じ込んでいた。

(つまり、ワシントンは、モスクワがベトナムにおける北京の冒険主義に不満を持っている故に、モスクワを西側の反中国同盟に引込める可能性が非常に強い、と決めてかかっていた) とはいえ、アメリカ人は、自分で直接にこの提案を持って、冷戦の敵モスクワにアプローチするよりは、この水の毒見を不運なハスラックに頼んだのだ。
 
(アメリカの差し金絡みと考えると、この訪問をアレンジするようにわれわれに出された指示がなぜそれほど、理解に苦しむほど切迫していたのか説明できる。この種の大仕事をキャンベラが独力で実行することは、キャンベラの性格からあり得ないと思われた。)
 
(けれども、モスクワもわれわれ自身も、この背景については何も知らなかった。コスイギンもグロムイコも― とくに後者は― グローバル政治の流れを徒手空拳で変えようとしているハスラックの、その見るからに滑稽な試みにすっかり首をかしげていた。

(コスイギンは、アメリカの残酷な攻撃に勇敢に立ち向かっているベトナム人に対するコミットを止めるつもりは毛頭ないと述べて、唐突にその会見を打ち切ったのであった)

(コスイギンは最後に、揶揄する口調でこう付け加えた。― 北京でさえ、苦しめられているベトナム人に手を差し伸べる必要があると感じているのだ、と。

(振り返ってみると、これは中ソ論争に対する西側のまちがった見方が西側の外交を歪め、後にわかるように、そのしわ寄せがインドシナの人々へ悲劇となって押し寄せたもう一つの例だ。)

(当時、主としてアングロサクソンの学者やコメンテーターがこの中ソ論争を利用して狂った中国がすでにインドシナやアジアの他の地域に進出を開始しており「運命の日」が近づいているというシナリオを作りに精を出していた。私は無力感を抱きつつそれを見ているしかなかった。

(だが、キャンベラ・アーカイブスの奥深く、私がモスクワから送った電報がいまも眠っている― 全駐在国に送られれば特別扱いになるはずの電報だ。それは、 通説となっている、ソビエトは穏健派、中国は過激派、という中ソ論争の解釈に疑問を呈した分析だ。中ソ両国とも、戦争や革命その他について言っていることは基本的に同じだ、と指摘したものだった。

(これがキャンベラの近視眼的な世界観を大したインパクトも与えなかったのはいうまでもない。)

(後になって、私が外務省の仕事をやめて後、これら全てを解く「カギ」を見つけた。―― つまり、1958年アメリカが核攻撃をちらつかせた台湾海峡危機の後、フルシチョフが北京に約束した核の援助を、モスクワが取り下げたという出来事である。
 
(私は、その謎解き作業の顛末を自著In Fear of China(日本語訳「国際政治と中国」)の一節に書いたが、これもまた、世間の通俗的な知恵に対してインパクトを与えることはなかった。

バーチェット要因
私にとって「ベトナム教育」のもう一つの重要部分は、その同じ頃にモスクワで、オーストラリア人ジャーナリスト、ウィルフレッド・バーチェットに会ったことだった。
 
バーチェットはちょうどインドシナ訪問からの帰途にあった。彼は私に会うことを希望し、私は大使館から、彼のアパートを訪問する許可を得た。そこで彼が語ったこと、それは、南ベトナムのベトコン勢力は、西側の誰一人考えていないほど、強力でよく組織されている、と結論付けるに足る証拠を私に与えてくれた。
 
私はそれをすべてキャンベラに報告した。どっち道、バーチェットがそれを望んだのだ。
(この詳細については上記の図書、第2章の注を参照。オーストラリアが生んだこの傑出した国際ジャーナリストであり、愛すべき人柄のバーチェットに対するオーストラリアの迫害は、オーストラリアの知性の狭さと薄っぺらさについて実に多くのことを物語っていることを付け加えたい。)
 
キャンベラが、南ベトナムのベトコン
(解放戦線)支配地域に実際に入った一人の西側人によるリポートだけでなく証拠写真までも、“関係ない”とそんなに軽々しく却下したことは、われわれの官僚主義から通常予想できる範囲をはるかに超えた盲目ぶりを示していた。このような態度と、私は終生つき合っていくべきなのか?
 
ここに来て、いわばとどめに一撃ともいえることは、タンソニエット空港周辺のベトコン村を訪れたというバーチェットの主張をアメリカが確認したものを、後にキャンベラが私に送ってきたことだ。それまではアメリカのエキスパートたちは、その地域は完全にアメリカとサイゴンの支配下にあり、バーチェットがその村にたどり着くことさえ不可能で、ましてやそこがベトコンの支配下にあったという主張にいたっては、あり得ないといっていたのだ。
 
その後
23ヶ月たって、その村から発射されたロケット弾がタンソニエット空港に着地し始めた。キャンベラから私に、彼らの誤りを認めたあるいはお詫びした通知が何か来たかといえば、もちろん何もなし。イデオローグであるということ、あるいはキャンベラの官僚であるということは、決して“ごめんなさい”とはいわないことを意味するのである。
 
そのバーチェットとの会見に関する報告の中で私は、恐ろしいといわれる当のバーチェットは、オーストラリアで信じられているような共産主義モンスターのようには見えなかった、彼はとても良識ある、まともなタイプの人間だった、と書いた。この私の努力に対して、キャンベラからは、サイゴンで数人のけが人を出した爆弾事件を起したあるベトコンの勇気を賞賛したバーチェットの行為をとんでもない行動と指摘した、サイゴン駐在の若手外交官キム・ジョーンズの反論を転送してきただけだった。
 
ジョーンズはキャンベラ時代には私のよい友人だった。私がオーストラリアの同僚たちから共通点が失われてきているのは明らかだ。 ここを出なければならない。

ソビエトから外へ
新しいキャリアへ、でも何のキャリア?
 
次に私がまずとった行動は、かなり衝動的な行動だったが、それはキャンベラへ、ニューヨークのポストを正式に断る手紙を書くことだった。とはいえ私は、自分自身の人間形成のこれほど長い年月を面倒見てくれ育ててくれたこの組織を、ほんとうに今すぐ永久に去ることを望んでいるのか。
 
たとえ中国語とロシア語が話せるとはいえ、もと外交官にとって、外の世界での仕事はそんなにあるものではない、と自覚し始めた。

親しい友人のジェリー・ガットマンを通じて、大きなユダヤ系のメルボルンに拠点を置く、共産圏との貿易会社ハイン・ブラザーズへアプローチしてみたが、進展はなかった。ジェリーはその会社の頭の固いメルボルンに拠点を置き、共産圏との貿易を専門とする大きなユダヤ系の会社ハイネ・ブラザーズへアプローチしてみたが、あまり成功しなかった。ジェリーはその会社の計算高い実務的な連中から、中国語とロシア語ができても関係ない、とあっさり言われてしまったのだった。
 
彼らは、ビジネスについてある程度知って知識をもつ人間しかとらないのだ。ことばの問題が生じたときは通訳を雇えばいい、という態度だった。
 
私が現実社会に戻るためには、ことばの能力以上に何か堅固な足がかりが必要なことは明らかだった。
 
さて、どうするか。その頃、ちょうど日本が経済の寵児にのし上がって来ていた。もしかして、ある程度日本の知識を積めば、その足がかりになるかもしれない。それには私の中国語の知識が役に立つかもしれない、と思った。
(そのとき私はまだ、この二つの言語がどんなに違うか、わかっていなかった。)
 
日本はまだ、平和的な魅力を残している国だった。たとえ外交官としてそこへ行ったとしても、私はキャンベラのモニター的なベトナム行動を弁護しなくても済むかもしれない、と思った。また他にも、情緒的に惹かれる要因もあった。
1961年に日本の田舎を列車で回った懐かしい旅で生まれた日本への興味、またモスクワ時代に日本大使館で知り合った数名の日本人、とくにある大使館員の奥さんは、日本人の性格の非常に人間的で魅力的な側面を、私に見せてくれた。
 
そこで私は、ニューヨークのポストを断る過程で、しばらくオーストラリアに滞在した後、日本へ転任を希望しようと決心した。
 
だがこうしたことへ踏み出す前に、まずモスクワを出なければならない。
KGBの監視―― 絶え間ない追跡と電話盗聴―― はますますひどくなる一方だった。私のモスクワの2年間の駐在はまだあと数ヶ月残っていた。
 
国連のポストを断ったことで、キャンベラは私を罰するために、モスクワにとどめておこうとすることは、大いにありうる。それに、大使館でロシア語が話せるのは私一人しかいないことを考えれば、いずれにしろその可能性は大だ。そしてその間KGBの監視はずっと続くだろう。
 
精神的にも、私は燃え尽きていた。(Jは、あるロシア作家との短いつき合いのあと、ロンドンに帰ってしまった。)私は彼女と心理的に波長を追わせようと懸命に努力したのだった。だが、われわれは別個の人間だった。モスクワという環境が二人をかなり不自然な形で結びつけたのではあったが。
 
その冬私はロンドンを訪れ、われわれは心暖まる再会を果たした。私はもしかしたら彼女にプロポーズをするかもしれない気持だった。だが、そのときはすでに、彼女は私とは非常に違った世界に住んでいた。われわれは別れた。そしてそれ以後再び彼女に会うことはなかった。
 
モスクワに戻って、私はまた、大使館のいつものルーティンの仕事と外交官のカクテルパーティーをこなしていた。だが心の中では、私にとってはこうしたことはすでに、意味のないものになっていた。私は空虚な渦の中へ巻き込まれつつある思いだった。

KGBの直撃再び
一と月かそこら経って、ヴォロージャから再び電話があって、事件はクライマックスを迎えた。彼とエレーナは、シベリアから戻ってきたばかりだった。彼は、モスクワにはほんの短い期間しか滞在できないといった。私にはおなじみになっていた、あのせっぱ詰まった声で彼は、緊急に私に会いたいといった。
 
「会おう、」とわたしは行った。でもほんの短い時間だけ、といって同意した。だが今度はモスクワ中心部のどこか公共の場所にしよう、と彼にいった。それと、今回はエレーナを同行するという条件を付けた。
 
われわれは会った。彼は、パドルスク作戦に先立つ数ヶ月前から
KGBは彼に目を付けていたのだ、と語った。あの時あの場で、彼が“失敗”したために、彼とエレーナはシベリアに追放されたのだ、といった。
 
だが、もしヴォロージャが、彼らの
KGB工作員と会うように私を説得できたならば、彼とエレーナはモスクワに戻ってきてもいいといわれたという。その工作員は私を尊敬している、とのこと。その男は私と会って、ただ雑談をしたいだけなのだ、という。
 
これはまさに、私に最後の決断をさせるための、必要なショックであった。私はモスクワを出なければならない。それも、早く。

シベリアの真実 
たまたまではあったが、私もシベリアから帰ってきたところだった。そのシベリアでは、私とわたしの旅の道連れ―― アメリカ大使館で文化的な方面を担当していたなかなか感じのいい男―― は、常にもましてたくさんのKGBのスパイやスタントマンに遭遇した。

私にとって、いちばんヒヤッとするきわどい瞬間は、ヤクーツク大学の学長を表敬訪問したときだ。その当時ソビエトのほとんどの大学を運営していた人当たりのいい平凡な年配の官僚たちとちがい、その学長は非常に東洋的な顔をしたインテリ的なヤクーツク人であることがわかった。

彼は表敬などという儀式には興味を示さず、時間を無駄にすることなく、代わりにわれわれにすぐさま怒りを込めて質問してきた。ここから南に僅か数千メートル離れた東洋の小さな国で、あなた方の政府が爆撃その他の暴虐を行っていることについて、あなた方二人は知っていますか、と。

連れのアメリカ人はしどろもどろに、弁解を試みた。わたしは黙っていた。わたしはオーストラリアの外交官として、オーストラリアの野蛮な政策を正当化することが何を意味するか、以前にも増して痛感せざるを得なくなっていた。私が外交官としてこのまま続けていく限り、それは南にいる殺人者と同じくらい私自身にも罪があるということを意味するのである。
 
外交官として日本へ赴任するなどということは、とりあえず忘れろ。私は自分に言い聞かせた。外交の世界から完全に足を洗わなければならない。いまは、できるだけ早く。それにしても、まずは、モスクワから出ることだ。そのためには、一騒ぎ起こさねばならない。しかも、大きな騒ぎを。

いかにしてモスクワから抜け出すか
キャンベラはまだ、私の後任を見つけていなかった。そこで私は計画的に、もうモスクワ駐在が長すぎて、早く帰国させる必要がある職員というイメージ作りに乗り出した。
 
それ以前に私は、外務省の所属部局に、シベリア鉄道と中国経由でオーストラリアへ帰国したいという希望を出していた。そのリクエストは拒否された: オーストラリアの高官が中国に入国することを禁じる政策を、オーストラリアは依然として固持していた。
 
そこで私は、外務省の部局の総務課長
(前の私の台湾の同僚キース・ブレナン)に手紙を書き、私を中国経由で帰国させることを拒むことは、キャンベラの反中国政策があまりにも行きすぎている証拠だ、と意識的に騒ぎ立てることに決めた。
 
私が感情的になっていることを分からせ説得しようという作戦だった。

さらにもう一つの手を打つため私は、新しい大使
(良識ある知性の持ち主ジョン・ローランド)(数年後、癌による彼の早すぎる死は、外務省の非常に数少ない良識ある穏健派の高官をまた一人奪い去った)に会い、恋患いメードがうるさくなっていることにも悩まされている、とさりげなく訴えた。
 
作戦は成功した。モスクワの西側諸国の大使館で、どんな形にせよ、メードとのトラブルは危険信号だ。(
KGBの手配するメードを現地で調達するよりも、ソビエトの外国大使館のように自分たちの国からメードを連れてくることにすればこの問題は起きない、と誰か彼らに言うべきだ)オーストラリアに戻りたいという私のリクエストはいち早く承認された。

更なる
KGBトリック?
だがまず私は、ソビエト出国のビザが必要だった。普通はそれは自動的に出してもらえる。ところが私の場合、非常に奇妙にも、手間取っていた。これはKGBが餌を見逃すことを嫌っているのだろうか。彼らはまた何か企んでいるのだろうか。

少なくとも理屈の上では、いかなる国でも他国の外交官がその領土を出る権利を拒むということは、最高に異常なことであるから、私はそう推測した。
 
なぜ出国ビザが遅れているのかについて、ソビエトの公式説明をオーストラリアは外務省に求めるべきだ、と私は迫った。結局出国ビザは発行されてほっとしたのであるが、外交的慣例に従いたい外務省と、私をもうしばらく監視し続けたい
KGBとの間で論争があったためだったと信ずべき理由がある。
 
おそらく
KGBは、再度ヴォロージャを使って私をもう一度罠にかけることができると考えていたのではないか。

(この情報の一部はソビエトからわが大使館に提供されていた非常に 頭のいい女性アシスタント、スヴェトラーナから得たものだ。 彼女は、自分がわれわれのことを当局に常時報告していることを隠そうとしなかった。ただ自分はKGBではなく、外務省から派遣されているのだと主張していた)
 
結局ようやくにして、私は出国ビザを手にすることができた。とうとう! ちょうど
2年前、私が始めてやってきた日ととてもよく似た3月の寒い朝だった。ローランドは空港まで私を見送りに来てくれた。
 
彼が来てくれて助かった: われわれは
KGBらしき数名の男が出国通路をウロウロしているのを見ることができた。彼らは黒ピカのスーツの腕まくりをして新たな罠を用意していたのだろうか。
 
幸いなことにローランドも、何か臭いものをかぎつけていた。彼は出国ゲートまでずっと私に付き添ってくれることに同意した。一時間ばかり後、数千フィート上空で私は、全体主義的政権のプレッシャーからついに自由になれたとき、他の多くの人も書いているように、あの同じような圧倒的な安心感を感じることができた。
 
私はついに
KGBの泥沼から逃げおおせたのだ。その泥沼の一部は私自身が作ったものではあったが。
 
私は自由人になった。

キャンベラへ帰る
モスクワから、通常通りロンドンでソビエト出国後の報告を受けるようにと指示された。そこで、かなりはっきりしたことは、私の上司たちは、モスクワ出発に先立った諸々の私の物語をそれほど評価していない、ということだった: どっち道私は彼らと別れる決心を固めていたのだ。

ロンドンから、
1961年の韓国のときの友人リチャード・ゲ―ツが代理大使をしていたイスラエルに立ち寄った後、私はキャンベラに帰った。

イスラエルの田舎道を回っていてずっと私の脳裏を離れなかった疑問は、もともとパレスチナに住んでいた住民が、イスラエルによると、その大半は
1948年に自らの意志で国外に逃れたといっているが、ではなぜ、残ったパレスチナの人々は、渓谷の豊穣な土地をユダヤ人のために手放して、不毛な山の斜面の土地に残ることを選んだのか、という疑問だった。

その数年後、この疑問は再び頭をもたげた。メルボルンのユダヤ人ロビーからの裏金資金と、頻繁なテルアビブ訪問で得た便宜で肥え太り、親イスラエル偏向に取り付かれてしまったボブ・ホークが、このような細かい事実について心を砕いたことがあるだろうか、という疑問だった。

8 ボブ・ホーク
ボブ・ホークと私の関係は、
1956年私がオクスフォードを離れようとしていたときに始まる。彼はちょうどオクスフォードに到着したばかりで、ローズ奨学生の慣例で、彼はまず私の父の監督下に入り、表向きは、労使関係について学び始めたところだった。
 
最初はあまり彼の印象はなく、クリケットに熱中していたこと、ある女性を誘惑するためにわが家の作業用トラックを借り出した挙句その女性から文句を言われたことくらいしか覚えていない。
 
数年後、私がモスクワからキャンベラへ帰ったすぐあとで、われわれは再会することになった。オクスフォードを卒業して帰った彼は
ANUで労使関係の勉強をするため大学院コースに入り、引き続き労働組合関係のキャリアを積み重ねる決心を固めていた。彼が何か有益なことをやったかどうか、私にはわからない。

将来のオーストラリア首相
その当時彼は、会う人ごとに自分は将来オーストラリアの首相になると語っていた。私はこのことを、父に手紙で伝えた。その時の父の返事は、ここで繰り返す値打ちがある。
(それ以来その手紙は「オクスフォード・オーストラリア人の手紙」の中に保存されているので興味のある方は読んでほしい)
「ホークには何かあつかましいところがある、と私は言わざるを得ない。彼はオレはそんなこと全て先刻ご存知だといわんばかりの態度でオクスフォードにやってきた。われわれが労働に関して新しい秘訣をほんの一つ二つ教えさえすれば、彼は賃金決定の完璧なオーソリティーになれると思っているようだった。

「彼は経済について何も知らなかっただけでなく、頑固すぎて何かを学ぼうとする気がな
かった。そこでわれわれは彼の卒論を落第にし、彼にとっては政治学部の下のコースで
論文を書く方が簡単だろうと考えて、ホエラー教授
(オクスフォードの政府行政学教授)
のもとへ彼を送ったのだった。
 
「ホークの興味はクリケットが第一だった。彼が成功したとすれば、オーストラリア労働界のリーダーたちは、英国のリーダーと同じで、いま世襲の政治指導者を生み出し始めたということだ。それは残念なことだ。」
 
キャンベラでは私は、ホークのもう一つの顔を見せられることになる。
 
1962年も終わりの頃のある時だった。ホークは私が開いたパーティーに、ビールを12本携えてやってきた。彼はそのビール半分を飲み干し、残りは置いていった。パーティーが終わってわれわれは、キャンベラの反対側の何処だったかへ、彼の車で出かけた。運転席にはホークが座った。われわれはシビック・センターに向かっていた。シビック・センターというのはキャンベラの中心部だが、そこの中心的な売り物といえば、若干の安いイタリアンレストランがあるだけのショッピングセンターにつけられたちょっとみじめな愛称だった。そして当時は人を接待するといえば、たいていそこしかなかった。そのシビック・センターに接する広い羊牧場のはるかはずれにある奥の方の交差点に向かって進んでいた。われわれがある程度スピードを出してT字路の交差点に近づいた時、右側から車の灯がこちらに接近してくるのが見えた。

その当時キャンベラでは、一つの厳しいルールがあった。―― 右から来る車には必ず先を譲ること、だった。われわれ双方の車のスピードを考えると、両方とも同時に交叉点に達することは明らかだった。私はホークに、われわれの車は道を譲らなければならないと告げた。ところが彼は、その反対に、道を譲らないという意思表示にアクセルを踏んだ。

他の車もアクセルを踏んだ。“畜生”といいながらボブは、もう一つの車よりギリギリ数秒早くT字路交叉点をはずれることができた。

問題は一つだけ: “彼ら”というのはキャンベラ警察だった。おまけに彼らの虫の居所が悪かった。