第4章

ボブ・ホーク(前章からの続き)

その一方の車から二人の大柄な警官が現れた。

私はホークに、私が話をつけるから車の中でじっとしているようにといった。計画では、ホークの車のビクトリア州のナンバーが示すように、彼はキャンベラの独特な交通ルールになれていないので大目に見て欲しい、というつもりだった。

だが交渉はらちがあかなかった。それを見ていたホークは、車から出てきて、私を押しのけ、二人の警官を伴って道路の外れまで行き、何か話し始めた。

10分ほどたつと、二人の警官はホークの肩をたたいて、「“あれ”は大丈夫だ、大丈夫、ボブ、」と軽口をたたきながら戻ってきた。

ホークの人扱いのうまさは印象的だった。少なくとも私よりはるかに上手だった。これは後に彼が政治の世界に入ったときも、折に触れて役に立つことになる。

その後の数年間キャンベラのいろんな場面で彼と顔を合わせることになる。― よく会ったのは、私と一緒に外務省に入ったやや保守的なローソン・ダルリンプルという男の家でだった(ホークは後にダルリンプルを、日本を含めたあちこちの大使館のトップのポストに送り込んだ。) 後にダルリンプルが語ったところによると、ホークはキャンベラ官僚たちの仕事に関するダルリンプルの報告を聞くのが好きだったのだそうだ。

それに比べ、私はホークからたまに通り一遍の挨拶をされるだけだった。そのころには私はベトナム反戦運動に活発に関わっていた。そのころには多くの労働党の右派の人々は、ホイットラムを含め、ベトナム反戦グループとの接触は避けようとするのが一般的で、ホークもそうだった。彼らはわれわれ反戦グループを、オーストラリア労働党の政策に有害な外れた連中とみなしていた。(ところがアメリカがベトナムからついに撤退したとき、真っ先にそれがオーストラリア労働党政策の勝利だと胸を張ったものだ)

だが70年代の初め私が「ジ・オーストラリアン」の特派員として日本で働いていたとき、ホークは日本の労働組合の幹部と会談するという名目で日本を訪問したが、そのときは彼はなおいっそうよそよそしかった。それは理解できた。そのときすでに私は1975年のホイットラム政権批判をいくつかのメディアに発表していたからだ。それによって私はオーストラリア労働党の大半のメンバーとくに右寄りの人々から“望ましからぬ人物”としてレッテルを貼られていたのである。

彼が首相になってからは、1980年代はじめの頃の彼のドグマチックな経済政策を批判し始めたときから、私は彼のブラックリストにのったと思う。

当時ホークの信奉者たちは、彼がオクスフォードへ入るロード奨学金をもらったことが、彼の経済学的天才の証拠だといっていた。そこで私は前述の1957年の父の手紙― 当時オクスフォードでホーク担当経済学教授が彼の経済学理解に関して特に目立ったものはないと明言した手紙― を公開することにしたのであった。

だが、少し横道にそれてしまった。話の続きは、1965年4月ソ連を離れるところからだった。
ANUコネクション

 キャンベラに戻る旅の第一歩としてロンドンに到着して、すでにはっきりしていたことは、私がモスクワを慌ただしく去る決心をしたことについて、体制側はあまりいい印象を持っていないということだった。
 キャンベラで私を迎えた空気も、またよそよそしいものがあった。私は新しい仕事を始めようと決めて、その計画に着手した。
 まず最初にしたことは、キャンベラでは、官僚出身者の大口雇用者だったANU(オーストラリア国立大学)に当たってみることだった。1962年私が香港から帰ってきて外務省の東アジア課で働いていた頃、まだ政府の政策の批判者として頭角を現す以前のことだったが、当時中国経済センターを立ち上げようとしていたジョン・クロフォード(後にサー・ジョン・クロフォード)からいい仕事の話を持ちかけられたことがあった。 

また他にも、ANU国際関係部長J. D. B.ミラーからも、彼の学部で研究者をやらないかという誘いがあった。どちらの部署も中国語堪能者を求めていて、当時キャンベラでこの種の人材はごく少なく、私はその一人だった。クロフォードはまた、私との個人的なつながりを強調していた。というのは、彼は私の父と共著でオーストラリア経済の本を出版していたし、農業経済に強い関心を持っていたこと、父と共通していた。
 そのときは、私は一年後かそこらでモスクワへ派遣される可能性があること、そしてモスクワから帰ったときには中国語に加えてロシア語や中国・ソビエト経済という当時人気のテーマについて経験をつみ、ANUのとってさらに貴重な存在になっているはずだからとして、申し入れを受けなかった経緯がある。ミラーもクロフォードもその考えに同調してくれたかのように見えた。 
 
だが1965年にキャンベラに戻ったときには、そうした連中との間に、以前の分かり合えるスムーズな関係はなくなっていることがはっきりした。クロフォードは、よいセンスと良識を持ってベトナム戦争に反対しているANUの学生たちを相手に激しい批判を展開してマスコミの見出しを賑わしていたのである。
 ミラーは中国の脅威について重大な警告を発している最中で、彼の学部は中国とベトナムをめぐる政府の立場を擁護せよとの指示を受けた、わけのわからないところから来るわけのわからない人間が多くたむろする場になっていた。
 
とにかく私は、共産主義社会とその秘密主義のやり方を研究するのはもううんざりだった。中国はいまだに、学者の中で最も親北京的学者を除いては、誰もいけない場所だったし、モスクワへ戻りたい気持は、とりあえずさらさらなかった。 

経済と日本へ目を向けようと決意したのは、以前のオクスフォード時代の経済学に対する興味がまだ残っていたことと、日本がすでに重要なエコノミックパワーとして台頭していたこと、また香港やモスクワで体験した日本への興味を追ってみたい気持もあった。ANUの太平洋学研究大学院(RSPS)はアジア諸国に関するPhD研究者に与える奨学金が潤沢にあった。ANUの経済学部の部長は、私が前に籍を置いていたキャンベラ・ユニバーシティ・カレッジの経済学の教師だったハインツ・アーントだった。モスクワを出発する前にすでに私は、彼の学部で勉強したいので奨学金を取りたいと考えている旨、手紙を書いておいた。アーントは励ましの手紙をくれた。
 キャンベラに帰ってまもなく、アーントに会いに行った。私には経済学を正規に勉強した経歴がないにもかかわらず、かつて1958年にアーントの下で2年生対象の経済学を勉強したこととあわせて、中国語の経験があるので、日本の経済の特定の分野を学ぶ奨学金のための推薦状を書けるだろう、といってくれた。

奨学金は3年間である。それに加え1年間日本でフィールドワークと日本語を勉強するための予算が約束されていた。(アーントも私も頭の中で、私は中国語ができるのだから、たとえ1年間でも、日本について独自の調査をやる程度には日本語がマスターできるはずと単純に考えていた。) アーントは研究テーマについて私にアドバイスさえしてくれた。― それは「日本の民間直接投資」である。当時日本がインドネシアの資源開発に投資し始めていた、一種独特なやり方について彼が興味を持ったため、という理由が大きかった。

もちろん私としては、苦労して身に付けた中国とロシアに関する経験を完全に放棄する気はなかった。けれども「日本」と「経済学」の勉強を終えた後で、やりたければ中国、ロシアという二つのあるいはどちらかの研究テーマに立ち返ることができると確信していた。

ところが、中国関係を再び深めようと願った私の希望は、まもなく崩れることになる。― その原因となったのは、この後間もなく起こった、もう一人の中国語使い手であるスティーブン・フィツジェラルドとの出会いだった。

フィツジェラルドは、私と同じく、大学を出て直接外務省に入った男、ただ私よりほんの少し遅かった。そして私と同じく、ポイントクックで中国語コースに進み、そのあと香港で2年間の駐在体験、と、私の後を追って進んだ。われわれ二人はたまに友好的にことばを交わすことはあったが、私は彼の動きをとくにフォローしているわけではなかった。1962年の半ばごろだったか、偶然キャンベラのシビックセンターで、土曜日の例の朝の買出し行軍の折に、たまたま出会ったとしか言いようがない。彼はちょうど香港から帰ったところで、仕事を探していた。
そして私と同じように、彼もキャンベラの反中国ヒステリーには我慢できないことがはっきりしたので外務省を辞めたい、という。だが、タスマニア大学の英文学の学士号では、中国語もまだ不十分だし、外務省以外の新しい仕事といっても見通しが暗い、と語った。

君何かいい考えはないか ?

ひとつある、いい考えが、と私は言った。それは結果的には、まさに、いい考えすぎた。
私は頭の片隅に、J. D. B. ミラーから自分が1962年に受けたオファーの口がまだあるかもしれない、という考えが浮かんだ。私は、ミラーが研究出張で留守の間彼の代理として国際関係学部の一時的責任者となっているアメリカの学者ジョージ・モデルスキーに面会の約束を取り付けた。そして彼に言った。私は経済学部に進もうと考えており、ミラーの以前のオファーを受けないつもりだが、フィツジェラルドができるかもしれない、と話した。
モデルスキーは、国際関係学部は依然として中国語堪能者を必要としており、以前私に打診したポストはフィツジェラルドに与えられないが、中国について研究する奨学金をフィツジェラルドに与えることは可能だ、と確約した。
私はこのことをフィツジェラルドに伝えると、彼は喜んでそれを受けた。

そのとき私は、このことがもたらすかもしれないリスクについて漠然とした感じをもった。―─ フィツジェラルドがキャンベラ在住の中国エキスパートとみなされるようになるかもしれない、そしてこれが後に、私が日本の研究を終えたときに、「中国」に戻るための障害になるかもしれないという漠然としたリスク。しかしその時はそれはそれほど大きな問題だとは思わなかった。

私にとってそれよりはるかに大切だったのは、ANU内部に味方、いわゆる“手近かに友をもつ”ことだった。そうすれば私はそれほど孤立を感じないだろう。私の個人的なことばかりでなく、外務省が中国スペシャリストとして育てた人間が二人とも、キャンベラの奇妙な中国観に付き合いきれないと判断を下し辞めていったことを世間に知らせることになる。
さらによいことは、私がキャンベラの中国政策を批判して問題が起きたときフィツジェラルドは私をサポートしてくれるだろう、という期待もあった。

ところが、後になってそのまちがいを自覚する時がやってきた。その後私がキャンベラ政策を批判し始めたとき、フィツジェラルドはANU内でも、また外部でも、あまり私をサポートしてはくれなかった。彼はただ、頭を低くしていい子にしていたかった。
クラークを同じグループの造反分子と見られることになれば、オーストリア世間一般に、とくにキャンベラでは、将来のアカデミックなキャリアの上でリスクが大きいと彼が感じていたのは明らかだ。そして後にわかることだが、彼は正しかった。

彼が私をサポートしてくれなかった結果ダメージを受けたことがしばしばあったが、それはどうしようもないことだった。
 後にホイットラムが北京と友好的にしても大丈夫だと決断したとき、フィッツジェラルドはALP(労働党)の中で中国エキスパートとして劇的に頭角を現した(1965年私がALPへ入党を勧めたときは少々しり込みしていたものだが)。彼は最後には、1972年にオーストラリアの初代中国大使となった。さらに彼は、グレゴリー・クラークという人間が中国に関わる何事にもカムバックできないようにした(後に詳述)。これはさらに、はるかにひどい痛手だった。
外務省を出る

ANUの奨学金研究員が確定したので、いよいよ自分の将来について外務省と交渉することができるようになった。彼らがモスクワのドタバタ退出劇の後で私をどう処遇しようかと戸惑っていたことは理解できる。とはいえ、私は依然として外務省の正式な職員だったし、彼らは私をそのように扱っていた。私を数週間マレーシアへ送り、若い外交官があるアジアの国で新しい大使館を開設する様を描いた研修用映画に、私を主役出演させさえした。(数年後に私がオーストラリア外務省批判を公然と展開してからずっと後になっても、この研修用映画は使われていたと聞く)。
彼らはまた、私をメルボルンに派遣し、ASIO(オーストラリア安全情報機関)において恒例のモスクワ駐在終了の報告をさせている。そのときある時点で、一人のASIOのいわゆるソ連関係“エキスパート”が、私が1964年オデッサから送った報告書について、対決を挑んできた。その報告の中で私は、KGBの地方事務所は私のホテルからすぐ近くにあった、と書いたのだった。

KGB工作員を現行犯で罠に生け捕った、と確信したそのいわゆるエキスパートは、突然立ち上がって、私がKGBの本部の配置についてなぜそんなに詳しく知っているのか、と威嚇的に詰問した。私はKGBが公的機関であること、そして彼らは好んで、ソビエト全土の地方本事務所の入り口に大きな文字で、名前 (ヴェゾパストノスティ 政府委員会) の看板を立てていることをその男に説明しなければならなかった。その当時、共産圏に関するオーストラリアのスパイ専門家のレベルはこの程度だった。

この頃、ほとんどの時間は東アジア課の中に留め置かれ、私が機密文書を見たいと言い出した場合気まずい対決になるのを防ぐための配慮をされた上で、中国やベトナム政策のファイルを繰るのに没頭していた。とはいえ、私は実は一つの重大な発見をした。それはベトナムに関して、キャンベラはワシントンよりもさらにタカ派だったということで、理由は、専ら中国に対する心底からの怖れだった。
さらに悪いことに、ワシントンで一部の人々が介入を控えるよう強く主張した重大な時点で、アメリカに対して介入をエスカレートすべきだと迫る上で、キャンベラが決定的役割を演じたことだ。中国の脅威についてのアメリカの認識がまだまだ不十分だと感じていたのである。

これは爆弾情報だった。というのは、当時のメディアでは、左派系の連中をはじめとして多くの人々は、キャンベラはアメリカという強力な友人からの圧力を受けて渋々ながらベトナム戦争に組み込まれていったと信じたがっていたからだ。
だが実際は、目的達成まで介入が確実に行われるようにするためにオーストラリアは扇動者の役割を演じたのである。

それ以後私は、著述の中で、この決定的事実を天下に知らせることを懸命に努力した。これはオーストラリアの外交政策の中で最重要な転換のひとつだと見た。― その当時議論が戦わされていたさまざまな枝葉末節な外交政策論議と比べ、はるかに重要なものだ。けれども、オーストラリア外交問題オピニオンリーダーとして通っているあの、偏向した、独善的な、脳みその腐った集団に対して、インパクトを与えることは全くできなかった。

これより何年も遅れて、何点かの外交文書が公開された時、他の研究者(マイケル・セクストン)も、これと同じ事実に突き当たった。だが彼の著述もほぼ無視された。一般大衆も学者も、主流派の学者たちたとえばブリュース・グラントなどは、ANZUS協定によればオーストラリアはアメリカのベトナム政策を支持すべきか否か、といった長ったらしいピント外れの議論に専念していた。実際は、ベトナム戦争介入は、ANZUSとかSEATOとかまた他の5文字組織(キャンベラの立場を正当化、あるいは批判するために公的に引用されていた)とはあまり関係なかった。介入は、純粋に単純に、“オーストラリア製”のものだった。それは中国への恐怖、アメリカから発信されるいかなるそれをも上回る、神経質で、まちがった恐怖に基づいていた。アメリカからリードされているのではなく、キャンベラがアメリカをリードしようと懸命だったのだ。
 
しかし、この非常に重要な事実をオ-ストラリア外交問題の陣営に浸透させようとすることは、よくいう“先のとがった棒で泥を坂の上へ運ぼうとする”に等しいことだった。このことは後に日本でも発見することだが、ひとたび通俗的な知恵が支配すると、部族的精神でもって、その逆のことを考えたくなくさせられるのだ。
だがまた、本筋から外れてしまった。
 
外務省辞職の最後の動きの一つとして私は、ポイントクックへ戻り英国外務省が実施しているロシア語通訳のAレベル(トップレベル)テストを受けるために、休暇を申請しそれを認められた。外務省を辞めるとなると、履歴書に自分の持つ資格をすべて書く必要があるだろう。中国語についてはこれと同じ資格はすでに香港にいた時取得している。ロシア語の資格を取るのもそれほど難しいことはあるまいと考えたが、実際予想通りに行った。

ANUの奨学金研究員資格が取れたので、いよいよ外務省の事務次官(当時)のジェームズ・プリムソルに面会を申し込んだ。自分を育ててくれ、中国語の訓練をしてくれたこの組織を出るのは気が重かったが、その一方、キャンベラの中国、ベトナム政策に対して重大な反対意見を持っている自分が、その政策実施に関わっている外務省に居続けることは、私には難しい。

プリムソルは、多くの人がいうように、とても礼儀正しい人だ。彼は私を非常に丁重に扱ってくれた。私が話したことは、実質的には、彼と彼の省が勘違いを犯している殺人者連中だ、という趣旨の内容だったのだが。彼は言った。今の時点では、中国語堪能者の出番は少ないとはいえ、外務省が中国語堪能者を失うのは残念なことだ。そして付け加えた、“どうだろう? いまはとりあえず一時的な留学休暇をとるかたちにして、ベトナムのことが片付いたら省に戻ってくるというのは?”
 
その提案はなかなか合理的なものに思えたので、私は同意した。私は彼が提案した無給の留学休暇をとる申請をし、それが認められた。その後まもなく私は、外務省を正式に離れ、年に2500ポンドの奨学金を受ける大学院生として新しい準キャリアをスタート、“ベトナムのことが片付くまで”待つ生活を開始した。
 そのときはまだ5月になったばかりで、研究員生活は9まではスタートしない。そこでまず私が始めたことは、パダルスク後の決意― 外交と官僚主義の外の現実世界でもっと成熟と経験を積む― を実行に移すことだった。その一つはギターを買うこと(これはほとんど手にすることなく過ぎた)。また他にはANUの学生生活に関係を持つこと。さらにもう一つ、自分自身に肉体的重労働を課し、プロレタリアのライフスタイルを課すことだった。

まず始めたのは、週20ポンドの賃金で、キャンベラを少し離れた岩山でラジャータ松を植樹する労働者のグループに加わり一日中働くという仕事だった。その一方、当時のキャンベラの学生たちの夜の歓楽に浸ることも怠らなかった。また、ロシア語を話す人を見つけて、モスクワ帰りのわがノスタルジーを満足させることも忘れずにはじめた。
 
霜の下りた寒い朝のキャンベラを出発して、10マイルほどを運転して、8時間、荒くれ労働者たちと一緒になって働き(彼らの大半は、地域の刑務所から仮出所している受刑者たちだった)、植樹の労働をして、夕方には疲れきって町に帰り、シャワーを浴び身なりを整えて、ロシア人移民たちとロシア語を話しに、あるいは誰でも歓迎の学生パーティーに出かける――これはわが人生でも絶妙なコントラストの体験だった。

そうする間にも、自分自身の決断を迫られていたことは、プリムソルが約束したように4年経ったら外務省へ本当に戻りたいか否か、ということだった。ベトナム戦争はヒートアップしていた。ほとんど毎日、朝起きると、またB52機が北ベトナムを一斉爆撃したという嫌なニュースとアメリカによるおぞましい死体の数え上げである。
 
そのころキャンベラ・ユニバーシティ・カレッジで、はじめてのベトナム“モラトリアム”ディベート(討論会)が実施された。左派系の反戦グループの議論は弱々しかった。この戦争は中国の南への侵略主義の一環であり、ベトコンは恐るべき凶暴な人種だ云々、と主張する右派の連中に対してしっかり応えようとする努力に欠けていた。
 とくに記憶に残っているのは、右派の弁護士で後に自由党の有力政治家になったトム・ヒューズだ。彼は、北ベトナムの新聞「ホック・タップ」から “ベトナム人民の精神を挫こうとするアメリカの侵略者は必ず敗退する”というような趣旨の一節を引用。──“ホック・タップ”、とヒューズは皮肉っぽく繰り返し、この奇妙な名前の新聞が世界のスーパーパワーに挑戦するとはなんたること、と強調した。これは聴衆に大いに受けた。
 
心の奥底で私は、遅かれ早かれ、このディベートに加わらなければならないと感じていた。まず何よりも私には、反戦運動に力を与える情報がある。だが留学のため一時休職中の政府役人である間は、政府の政策を批判するのは不可能だ。理屈の上だけでなく、常識的にも、立場をはっきりさせなければならない。
 その一方で、私にはまだ、前の職場に対して愛着の気持があった。当時の外務省は非常に強い家族的な雰囲気があった。われわれは単に外部のオーストラリア社会からだけでなく、他の官庁や官僚たちからも別個な、独特の小さく濃密にまとまったクラブのメンバーであった。メンバー同士よく面倒を見合った。初期段階の昇進はほぼ年功序列方式; 現在の食うか食われるか的なキャンベラ官僚主義はまだ存在していなかった。
 今でも懐かしくよく覚えているのは、1962年に東アジア部にいた二人の中級レベルの先輩外交官ケン・ロジャースとキース・ダグラス—スコットだ。その二人は報告書の書き方やファイルの使い方などを親切丁寧に教えてくれた。それは、のちに日本で経験することになる先輩後輩という現象を、非常に自然な形で体験させてくれるものだった。
 
現在のキャンベラでは、もしいま新人を手助けしてやれば、その人間に、自分の頭越しに昇進されてしまう可能性が強く、そのような思いやりのある行為はあまり見られなくなってしまった。だが当時は、日本で見られるように、官僚機構の中で非常に魅力的で、且つ効果の大きい、こうした人間関係の側面が残っていたのである。そしてまた当時は、政府の政策に賛同できない人間を懲戒したり追放したりする雰囲気は微塵もなかった: 私に対するプリムソンの態度もその一例だ。つまるところ、われわれみんな、同じエリート倶楽部の一員ではないか、という気持。ここを出て私は果たして外の冷たい世界に踏み出す用意があるのか。― こんなに長い間私を育て面倒を見てくれた飼い主の手を噛みたいだけのために?
ASIOの犬ども放たれる  

しかしながら、このような一片の感傷は長くは続かなかった。まもなく私はとびきり醜いASIOごろつき集団性と外務省の臆病性にぶち当たることになる。そのことが、前の雇用者に対してまだ残していた情緒的な義理人情意識をきっぱり忘れ去る助けになった。ことの次第はこうだ:

研究休暇の手続きを完了して私は、今振り返って考えればばかなことだったが、外務省にポドルスク事件の顛末を話そうと決心した。私の頭の中では、彼らが自分たちのモスクワ大使館に対するKGBの深刻な工作の一部始終について知ることは、彼らにとってありがたいことだろうという、理想主義的な判断があった。また同時に、私がモスクワを急いで離れたかった理由について、真実を記録に残すことがよいとも考えた。
そのときまでに、外務省が入手していた記録といえば、ニューヨークへのポストを断った興奮気味の私の連絡とモスクワの“恋患い”メードについての迷走気味のエピソードだけ―― 私がANUの後で数年後外交官として外務省に戻ってきたときに、将来のキャリアのために有力な材料なるとは思えない細かい話ばかりだったからだ。
 
外務省の総務部長(後に外務次官となる)のピーター・ヘンダソンに、真実を伝えることにした。だが彼は、この件に関わりを持つことを嫌い、即刻ASIOの人間を招集し、私の聞き取りをさせることにしたのである。その日一日がかりで、私はキャンベラのシビック・センター近くにあるASIOのセキュリティー・ルームの中で、丁重にではあるがたっぷりしぼられた。その頃までには私は、ASIOによるこうした尋問は避けられないだろうと観念していた。しかしそれからまもなく、自分の車が追跡されていることに気付きはじめた。(モスクワでの経験から私は、自分の車のバックミラーに注意をはらう習慣になっていた。)そして電話も変な音を出すようになったことに気がついた。
 
つまりモスクワの出来事の真相を話してやろうとしたことが逆効果となり、私を背中から襲撃したわけだ。ASIOの犬は放たれた。そして一人の元モスクワ駐在外交官、とりわけ危険な共産主義国の言語である中国語とロシア語を話す一人のモスクワ帰りの外交官、に狙いを定めて跳びかかった。ついに、あいつら外務省の左寄りの柔な連中の一人、しかも孤立し自分の側から反撃できない立場の人間、を歯牙にかけられるチャンスが来た。

私は鉄のカーテンの向こう側で、耐えざる猜疑心とハラスメントに囲まれた生活を強いられ、いまようやく脱け出してきた。それがいま、鉄のカーテンのこちら側で、それと同じような扱いを受ける。何たることだ、全く。
 
だがさらにひどいことが追い討ちをかける。というのは、ドジを踏んだASIOは私が自分で自分を罪に落とし入れるように仕向けて、罠をかけたのである (私が他所で書いたように)。ここでもう一度、概略をまとめてみよう。
 
1962年の早春のある晩、私のところに、ソビエト大使館の職員と名乗る一人の男から電話がかかってきた。彼はロシア語で、大使館のある高官(たしかペトロフという名でキャンベラに赴任する前にモスクワで私が会っている人間という)が緊急に私に話があるので、午後九時にキャンベル地区の近辺のしかじかの道路の交叉点に来てくれないか、そこにその人物が行くから、とのこと。
 当然ながら、私は戸惑った。思うに、KGBがいまなお、ヴォロージャ事件(前章を参照)を追って、私を追跡している可能性もあるかもしれない、と気づいた。だがそれにしても、なぜこんなあからさまな、見え透いた方法でやるか? またひとつ、電話の主の声は年配者のもので、ソビエト大使館の職員にしては少々おかしい。
 
そのとき、やっとわかった。その男はキャンベル地区の待ち合わせ場所として地区を表現するのに、革命後の用語“レイヨン”ではなく革命前のロシアで使われていた古いことば“ウェズ”といった。もしかしたら、電話の主は年配者の白系ロシア人で、ASIOの各工作の要員として雇われている人間かもしれない。これはどうしたものか ?
 
考えれば考えるほど、私は堂々巡り(キャッチ22)状態に陥ってしまう、と気づいた。それも、一つの迷路ではない、二つ、さらに三つかもしれない。
 
電話の要求に応じて、これが本物かどうか確かめてみたい気持が湧いた。もしそれが本物なら、これはヴォロージャ事件(前章)のフォローアップの一環としてやられているものなのか。もしそれがニセモノだったとしたら、それはASIOが私を牙にかけようとしたものとして確かな証拠になるのではないか。けれども、この電話が本物だとすれば、この電話がASIOの電話盗聴器で盗聴されている可能性が強いだろう。そしてもしこの電話がニセモノなら、その場合はやっぱり、ASIOがそれを知っていることは明らかだ。
 
ということはつまり、本物であろうとニセモノであろうと、もし私がこの求めに応じた場合、ASIOは狙い通りに私がソビエトの工作員の志願者であるという烙印を押すために欲しがっている証拠を握ったことになるだろう。かといって私が、この要求を無視したとしても、問題ありだ―― つまり、研究休暇中とはいえ公務員として正式に名簿に載っている人間がキャンベラのソビエト陣営から不適切なコンタクトを受けた場合、報告する義務がある。するともう一つの、別なリストに載せられることになる。それは困った。コンタクトがあったことを報告しなかった公務員のブラックリストである。私がこの電話の求めに応じないで、当局に報告し、且つそれが本物であった場合、やっぱり私はもう一つ別なリスト―― この場合は、ソビエトが反オーストラリアの活動に要員として使えると考える人物のリストに上ることになる。

 あれこれ考えた結果、すっきりした解決方法を見つけた。この出来事を直ちにジョン・エリオット―― 当時キャンベラのASIO代表で、彼がイミグレーション係官としては働いていた香港時代私が知り合いになった人物で、そのとき偶然にも中国からオーストラリアに来た白系ロシア人の動向を探るという仕事もしていた―― に報告することにした。彼に緊急に面会を申し込もう、そして外務省人事担当係官(キース・ブレナン―― 台湾時代から知り合いだった人物)に同席してもらおう。それというのも、私は理屈の上では、依然として彼の省の職員なのだから。
 
私はこの二人に、この電話の要求を実行することによって、果たして本当にソビエト陣営が反オーストラリア作戦に私を使おうとしているのかを見極めることが、愛国者としての私の義務だと考えている、というふうに持っていこう。そしてことの次第を全て彼らに報告する。その過程を通じて、この電話が本物かニセモノか見極めるべく、核心に迫ることができるだろう、と自分に言い聞かせた。
 
二人とも、この意見に賛成し、私が電話の求めに応じるべきだといってくれた。(ブレナンが同席していたので、ASIOマンもノーとはいい辛かったのだろう。) しかし、約束の待ち合わせ場所に行ってみたものの、この電話がニセモノだということは、私にははっきり判っていた。もしエリオットがこの電話はニセモノだと考えたとしたら、彼はその場所の近くに影車を配置し、事の成り行きの一部始終を監視することにしたはずだ。しかし現場には、車は全く一台もなかった。ということは、彼ははじめからその電話がニセモノだと知っていた、そしておそらく、彼自身が白系ロシア人のコネを使って、この劇を自作した可能性さえあった。

 その現場には、ソビエト大使館からも誰一人来ていなかった。はじめからそれは、私を陥れようとするASIOの策略だったのだ、私がどっちに転んでも。

 それは屈辱的な体験だった。私がKGBスタイルのスタント業のれっきとしたターゲットと見られていたということばかりではない。オーストラリア版KGBは、全くだらしがなくて、頼るにことかえて、スタント実行のために必要な現代ロシア語さえ話せない白系ロシア人のおっさんまで使わねばならない有様だったのだ。

 外務省に対するASIOの劣等感コンプレックスはよく知られている。そこのスタッフの多くは、外務省に入れなかった連中だ。そしてわれわれ外務省タイプは世界を歩くのに比べ、ASIO陣営はキャリアの大半を退屈なメルボルンで過ごすことになる。

彼らはまた、猛烈なタカ派だった。オーストラリアの安全をこれからに担うべき自称“ガーディアン”として、われわれ外務省の人間をコスモポリタン、共産主義に影響されやすい左翼がかった連中と見ることを好んだ。いま、パダルスク事件について私が話してもいいという気になっているおかげで、このようなタイプの一人が直接に派遣されて彼らのそそっかしい手の中にとびこんで来たのだ。彼らにとって明らかにめったにないチャンスだったわけだ。普通はASIOの連中は、外務省を相手にするときは、きびしい綱をつけてコントロールされているものだから。

ASIOの突飛さについては、役所の間ではよく知られていたので、彼らが外交政策策定の領域に干渉して来ることは誰も望まなかった。しかし私の場合、外務省から離れようとしている人間であり、しかもKGBのスタント業について語ったのであるから、ASIOのスタント業にとっても私は自由自在にハントできる格好の獲物と見られたのかもしれない。

後になって、私はエリオットに、彼の組織がこのドラマ一切を演出したということを暗に認めさせることができた。私のやり方は簡単だった。あの“ペトロフ”については、私自身フォローアップしており、それは次の週に招待されていたソビエト大使館のレセプションで彼(ペトロフ)に会ったとき、前回の約束のときに彼が現れなかった理由を本人にただそうという提案を、エリオットにしたのである。もしエリオットがイエスといったなら、あの電話は本物で、ペトロフは最後の瞬間に撤退した可能性もあった。もし彼がノーといったなら、彼がASIOのスタント業が暴露されるのを好まなかったことが明らかになる。
結果は、エリオットの否定的リアクションが私の知りたかったこと全てを語ってくれた。

とはいえ、いまだ一つの疑問が残っていた。その電話の件をブレナンに報告すれば、私は自動的に自分を罪に落し入れることになる。なぜなら、外務省はASIOの輪の外にいるのであるから、その電話は、それが本物でなかったと証明するために私は可能な限り努力したのはまちがいないが、本物であった可能性もあるということを考慮に入れておかねばなるまい。いずれにしても、“ベトナムの件が片付いて”私が外務省に戻ると決めた場合、そのいずれの場合も、私の履歴書に書かれて魅力的なものとはいえない。

プリムソルに手紙を書いて、外務省がASIOと連絡を取るように、そして私が実際にASIOの活動のターゲットになっていたのかどうか、はっきりさせて欲しいと頼んだ。その調査の結果を私に告げる必要はない。しかし外務省としては、外務省自身の記録のために、真相を知る必要がある。
 
これに対してプリムソルのにべもない拒絶は私が外務省を出る決意をするための最後の一本のワラであった。一週間後、私は正式に外務省に辞職の連絡を入れた。“ベトナムの件が片付く”のを待つわけにはいかなかった。折りしもいよいよ始まりつつあったベトナム・ディベートに、本格的にコミットすることになった。