第4a章
 ANUとベトナム戦争ディベート

1. “ジ・オーストラリアン”コネクション
2. 政治的になる
3. 博士論文へカムバック
4. 中国の本 
5. ジム・ケアンズ と エンクレイヴ(分割)解決法
6. 出版社探し

1965年9月ほぼ10年の役人生活を経験した後、へその緒はついに切れた。私は正式に外務省を辞職した。

それは簡単な決断ではなかった。私は一人ぼっちになった。ほぼ10年間というものあれほど親密にともに働いた仲間は今では柵の向こう側の人である。あの時辞めなければならなかったと分かっているが、当時はその論理がいまひとつはっきりしていなかった。

一方、拡大するベトナム戦争の悲劇について、そして、ここ数年共生せざるを得なかった反中国的嘘と妄想について、自分の思うことを自由に述べることが可能になった。
今はもう、今後4年間も人工的な、動くに動けぬ、猿轡をはめられたような政府の役人ではない。

私は自由になった。この自由を実感する機会は、思ったより早くやってきた。

1 “ジ・オーストラリアン”コネクション
その年の早い時期、当時まだキャンベラタイムズ紙の駆け出しリポーターだったエリック・ウォルシにばったり会った。その後彼は、シドニーの夕刊紙のキャンベラ特派員として仕事を変えた。

当時の若さで彼はすでに幅広い人々と緊密な個人的な関係を築いていた。彼は、リュパート・マードックが勇敢にもキャンベラをベースにオーストラリア初めての全国紙として創刊しようとしていた「ジ・オーストラリアン」のナンバー2、アドリアン・ディーマーを私に紹介してくれた。
 
あの頃「ジ・オーストラリアン」紙は、ベトナムについて、またその他多くの問題について、進歩的で、よいセンスの報道をしていたメディアの一つだった。マードック自身も、やや進歩的だった。後になって彼は右寄りにシフトしたが、その引き金となったのは、一部は、マードックがシドニーで、また後にはロンドンで、左派的な印刷組合と問題を抱えるようになってからのことだ。新聞編集者としてのディーマーのリベラルな思想と知性を、高く評価する人は多かった。そして私も全く同感であった。彼は私を編集長のウォルター・コマーに紹介してくれた。二人とも外交官“高官”がオーストラリアのベトナム介入に反対して辞職したという地味な報道に興味を示し、スクープを取り上げてくれた。

そのリポートはいくつかのニュース通信社に取り上げられ、海外のいくつかの新聞にも、掲載された。とはいうものの、反響は概して控えめなものだった。

ベトナム介入に反対して辞職した欧米の外交官としては、私が初めてだったかもしれない。だがあの初期の段階では、まだベトナムは熱いテーマではなかった。多くの人は介入はすぐ終わるだろうと考えていた。南の親共産主義的な勢力が強大なアメリカの全面的な圧力に抵抗するのは不可能だ、と信じ込んでいた。

しかし「プラウダ」紙はこのニュースを真剣に取り上げた (そこにはKGBという理由があったかもしれない)。 同紙は長い二段抜きの記事で、私がすでにモスクワ時代に、欧米によるベトナム介入の不道徳さを理解していたことを述べ(どうしてそれがわかったのか?)今勇敢にも、キャンベラの反共主義者というひどい存在を目の前にして辞職を決意したということが書かれていた。

この「プラウダ」紙の介入がASIOの連中を怒らせたのは言うまでもない。後で聞いたことだが、そのことはオーストラリアの安全の“頼もしい守護者たち”をして、私という人間が、単にソビエトのものになったばかりか、ソビエトの連中が私を政府の仕事から辞職するのを促し、ベトナムを巡る自分たちの世界的な反米キャンペーン展開のための道具にしようと目論んでいると信じ込ませるに至った。

さらにコマーとディーマーは、ベトナムについて何か書けと私を誘ってくれた。「オーストラリアと負け戦」というタイトルで 1965年10月私が書いた記事は、アメリカとオーストラリア軍部のベトナム介入の目的と戦術を厳しく批判したものになった。
 
しかし、タイトルとは裏腹に、その記事はアメリカとオーストラリアの敗北を予想したものとはいえなかった。実際には、他の大方の人々と同じで、アメリカの軍事力の圧倒的強さが最終的には勝ちを占めると私も予想していた。結局、充分に多くの人間を殺せば、スターリンやヒットラーほかの多くの屠殺人が証明しているように、正義不正義の議論など関係なくなる。

この記事が私を、オーストラリアに生まれつつあったベトナム反戦運動―― 保守的な外務省時代の私は長髪の過激的ならずもの集団として避けていた人々―― の中にしっかりと押し入れた。シドニーに本部を置くオーストラリア共産党の支部からさえも、連絡を受けた。(忠実にも私は、前の外務省の同僚たちにもこのことを報告した。―― つまり、断ち切るべきへその緒は、まだきっぱりとは切れていなかったのだ。そしてディーマーの依頼で、中国とロシアに関する一連の記事をさらに追加執筆した。

いうまでもなく、このような動き一切は、政府に知られずに済むものではない。聞けばこれは、ジョン・ゴートン教育大臣(当時)さえも、政府が出資しているANU(オーストラリア国立大学)がなぜこのような、べトナム戦争反対の不穏分子に逃げ場を提供しているのかと、声を上げたという。

またこうもいわれた。ANUの人々がゴートンの圧力に抵抗する決定をしたとも聞いた。とはいってもこれは彼らが、私の行動に賛成しているという意味ではない。同じ頃、私が奨学金を受けた太平洋研究所大学院(RSPS)の所長だったクロフォードからは、付属のキャンベラ・ユニバーシティカレッジで中国歴史の公開講座を行うことに同意したという“恐ろしい罪”に対し、私は正式に訓告を受けた。

博士課程奨学金の学生は、完全に博士課程の研究に集中しなければならない。その意味は、―― ベトナム反戦活動から足を洗うこと―― 私にははっきりとわかったが、そこで自分を曲げることはなかった。

2 政治的になる 
問題は政府の圧力だけではなかった。ANUに到着して数週間のうちに、私は完全な混乱の渦の中に投げ込まれた。一方では博士論文の研究に必要な経済学を早急にモノにしなければならない。(1958年に履修した2年生対象の経済学では十分とはいえないことがまもなく判明) また一方日本語の勉強も始めなければならなかった。(中国語と日本語はまったく違う言語だということが、その時すでにわかっていた。)
 またそうしながらも、ベトナム戦争反対のセミナーや会議にも出席、講演するためにオーストラリア全土を引き回されていた。

ベトナム反戦講演でシドニーヘ旅行するにつれて、「シドニー・プッシュ」出身のひとびととの幾人かと知り合うことになった。彼らは自由恋愛とかまた人間のさまざまな悪徳を信じる自由主義者たちで、ピューリタン的なキャンベラからの避難民である私にとって、そうしたことはとても刺激的なものだった。
「プッシュ」の連中は、まだ非常に狭く保守的だった私の視野を広げるのに大いに役立った。ただしこれらは私の博士論文研究のためにはあまり役立たなかった。

私はまたオーストラリア労働党のキャンベラ支部にも加わった。そうすることで少なくともベトナム問題に多少とも貢献できると考えてのことだ。そして党支部内の左派系の人々の中に私を支持してくれる人々を見つけた。とくに政治学者ブリュース・マクファーレンは有難かった。
ブリュースは後に毛沢東と文化大革命の賛美者としていささかやり過ぎた。とはいえ、彼の寛大さと人柄のおかげで、困難な時代を生き抜くのをずいぶん助けてもらった。彼は私に、労働党のキャンベラ選挙区の立候補者として立たないか、と提案さえしてくれた。私は断ったけれども、悪い気はしなかった。

その当時、労働党はベトナムを巡ってひどく分裂していた。左には、世界中のいかなる親共産主義革命派であろうとその全てを支持するマクファーレンのようなイデオロギー的左翼がいた。彼らと同時に、しかし彼らと一線を画して良心を持った活動家── 私のように、政治的な偏向はないが、アメリカによる介入の残酷さと不正義にたいして心底憤慨している人間がいた。
 
われわれに対峙するのは、強力な右翼でとくにキャンベラとニューサウスウェールズで強く、基本的にベトナム介入を支持していた。それよりさらに悪いのが、労働党の素朴なプロレタリアート―― つまり労働者と労働組合幹部で、あらゆるベトナム支持論争のもっともたちの悪い議論に加担していた: “あのチビの黄色い悪い奴らがここまできてわれわれを殺す前に、あそこで奴らを殺してしまえ。”それは気持のいい混成軍団ではなかった。

私が高く評価し、尊敬するようになったひとつのグループは、クエーカーたちだった。彼らは戦争の初期段階で、非常に苦労してベトナム戦争に関する事実とそれに対する意見をまとめた冊子を作った。そこには私が「ジ・オーストラリアン」紙に最初に書いた記事もふくまれていた。もちろん言うまでもないが、彼らはオーストラリアを支配する保守的なメディアからは全く完全に無視されていた。

もうひとつのグループは、情況を非常に憂慮するレオン・グレイザーと呼ばれる活動家が編集する“ディセント”と呼ばれる、メルボルンで刊行されている雑誌を中心に集まった人々だった。わたしは今、その雑誌のひとつの表紙を忘れることができない。12人ほどの農作業の服を着た非武装の若いベトナム青年が流れのそばで死んでよこたわっている。その後ろの方に重装備した米兵が数名、にやにやして立っている。その写真全体が見せている下劣さは今もはっきり目に焼きついている。
「ブレティン」誌との対決

「ディセント」誌の編集長グレザーに、もしかして同誌になにか書くことはないか、と聞かれた。たしかに、私には書きたいことがあった。シドニーで出されている「ブレティン」誌は、非常に右翼的な編集長ピーター・コールマンの下で、ちょうど同じように右翼的な評論家ブライアン・バックレーによる長い記事を載せたところだった。その中で彼らは、左翼たちと「ディセント」誌がとくにベトナムについて世界共産主義と中国の危険性を認識していない、といって居丈高に攻撃を浴びせていた。
 
その記事は不思議な記事だった。というのは、当時のオーストラリア右翼の標準的な月並みな“左の奴らをやっつけろ”調とは一線を画し、事実や日付を多用して、アフガニスタンをふくめいわゆる“中国の策略”にまで言及し、自説を補強する努力が見えた。それはとくに、“中国の陰謀”を理解しないことに対して、左翼を特別に蔑視したものだった。

 だが、バックレーの記事をさらに注意深く読むと、その記事は大部分は僅か数ヶ月前のロンドン・エコノミストの記事からとられたもので、一部はそっくりそのまま使用されていると気がついた。その当時の「エコノミスト」もまた、ベトナムと中国に対し首までどっぷり反左翼の毒々しい批判に浸かっていた。

つまり、“左翼をやっつけろ”タイプの連中はいまや、自分たちの思想や研究の弱さを隠すために、わかりやすい、平凡な剽窃の手法を使い始めたのだ。また気付いたことは、エコノミストのその記事の反共産主義的こきおろしの物言いを仔細に見ていくと、それが当時ソビエトのイデオロギー主義者が、自分らの造反者たちとくにヴィクトール・ネクラーソフという不運な作家(愚かにも西側に対してより合理的なアプローチを取るべきだ、そして資本主義制度の長所も少し理解すべきだと主張していた)を批判するために、使っていた反資本主義的こきおろしの物言いと非常によく似ていた、ということだった。

親共派と反共派の理論家たちの精神構造のミラー・イメージ(鏡の左右対称像)は、ずっと私を捉え続けているテーマのひとつだ。

そこで私は、私の「ディセント」誌への記事を書くにあたって、最初にバックレー記事と少し前の「エコノミスト」記事の際立った類似性を指摘することから始めた。ある人はこれを剽窃だというだろう、だが私は、これは剽窃なんかじゃない、偉い人は同じように考えるものだ、と皮肉たっぷりに書いたのだ。そうした後で、その記事の中の反共産主義的、反中国的、反左翼的なくだりを取り上げ、それを、当時モスクワのイデオロギー的評判悪い(ゴミ)新聞で展開中の反資本主義的、反西側的、反ネクラーソフのミラー・イメージの横に並べてみた。それを見るとまた、偉い人は同じように考えるのだということを認識できたと指摘した。

さらによかったのは、「ブレティン」誌の記事が元の「エコノミスト」誌の記事よりさらに強力なこき下ろしの物言いをしている箇所を取り上げ、それらを使って、バックレーが「エコノミスト」誌よりもさらに巧みにソビエト的思考とマッチしている、とより“皮肉たっぷりに”(歯に衣着せて)論じることができた。

自分でいうのもなんだが、その記事は私がそれまでに書いた記事の中で最良で最強な部類に入ると思う。2年間というもの、毎日ソビエトの親共産主義イデオローグの声に耳を傾け、またそのミラーイメージである欧米の反共産主義イデオローグに浸りきった経験から、私はこのテーマについては正確にそしてある程度の権威を持ってものを書ける立場にあると考える。これは双方の側のイデオロギー的な偏向を白日の下にさらす完璧な機会だった。

もしもオーストラリアで誰かがこの点について気がついていたとしても、口に出してはいわなかったということだ。左派にしろ、中道派にしろ、私の同僚の大半は、親共派と反共派の偏向性の愚かしさや、その一語一語の類似性を同列に並べてみるというアイディアを、いまだかつて思いつくことができなかった。

オーストラリアは、まだ、その種の洗練性を受け入れるまでには至っていないのであった。政治的なディベートにおいては全て、一方の側が正しくもう一方の側がまちがっているという想定しかあり得なかった。
中道派のひとりふたりからは、気の毒なバックレーに対しあまりにも私が厳しすぎるとさえ言われた。ということは、右派が左派に対して侮辱や辛らつな批評を浴びせることは許せる、しかし左派でありながら左派に反論することはまちがっている、というわけだ。こういう議論の根本からして私は理解できない。だが当時のオーストラリアではこの気風が強かったように思う。

もちろん右派は、ブレティン誌を含めて、怒りをあらわにした; コールマンからは裁判に訴えると脅かされた。この記事を書く前になぜ私は彼にコンタクトをとらなかったのか、と彼は雷を落とした。前もって彼に連絡していたなら、彼としては、もともとのバックレー記事から「エコノミスト」誌への言及部分が削られたのは単なる偶然だと、私に確認できたのに、ということだ。
コールマンはいうまでもなく、この記事の主論点である右翼、左翼教条主義のミラー・イメージ的相似性について反論しようとさえしなかった。
 またバックレーが左翼に対しひどい批判をするに当たり、自分がなじろうとしている相手が実際どんなことを考えているのかを知るために前もってコンタクトを取る必要を感じた様子も見られなかった。オーストラリアでも他所でも、右翼の人たちから非常にしばしば感じた、自分たちだけが知性と善意と真実の源であるという自己中心的な自信は、ベトナム戦争以後も揺るがなかった、ということだ。

「エコノミスト」はとくに、この揺るぎない自信の好例だ。だが「ブレティン」誌も、コールマンの下でも、また同様に猛烈な反共の後継者ドナルド・ホーン(後に親ホイットラムに、また他の流行の左翼的思想へずるい転換をした)の下でも、この点では「エコノミスト」に引けを取らなかった。
さらにベトナム論争── AIPS

「ディセント」の関係者や、時々行われたベトナム反戦演説会のおかげで私は、メルボルン地区のたくさんの活動家たちと知り合うことができた。モナシュ大学のマックス・タイチマンには、よく世話になった; 恐れられていたビクトリア州左翼の大物のいく人かに私を紹介してくれた。彼らの情熱とまた憎しみの強さも印象的だった。

シドニーの左翼は、それに比べて動機付けはかなり弱いように思えた; 彼らの多くは敵を見つけ出し、外交政策を論じることより人生を楽しむことに熱心なようだった。「プッシュ」の連中もまたアナーキー的で反政府的だったが、そのため共産党も含めてどの政党に対してもかなりの程度非妥協の態度をとっていた。ベトナムの苦難に対する思い入れは少なかった。

彼らのイデオロギー的弱さは、当時かれらの師匠だったパディ・マクギネスが後に右翼に転身したことにもはっきりと現れている。転身先でも彼は、左派だった時とほぼ同じような不寛容さといい加減な議論をやっていた。

ジョン・バートンが新設したオーストラリア党は、自身の反戦の立場を強化するために私を引き入れようと懸命になっていた。だがその党はひどくまとまりがなかった。

私の中の暗い記憶のひとつは、シドニー郊外での党の集会でアレックス・ケアリーと一緒にステージに上がったことだ。彼は根っからのヒューマニスト(人権主義者)で、ベトナムにおける暴虐に対して私以上に心痛していた。その時彼は、ベトナムに関する歴史的法律的資料(1954年のジュネーブ協定など)を山のように持参して介入の違法性を証明しようとしていた。とはいうものの、われわれの目の前に集まった聴衆は正確に10人── 老人3人、家庭の主婦6人、そして犬が一匹だった。

このような活動のクライマックスは、保守派でありながら状況を憂慮していた弁護士ジョン・マントから、1967年1月のオーストラリア政治学研究所(AIPS)の年次総会で話すことを頼まれたことだった。テーマは「アジアにおける共産主義── オーストラリアにとって脅威か?」だった。
 “脅威”派には著名な論者が陣を構えていた。── J. D. B. ミラー、オーエン・ハリーズ、ゼルマン・コーエンほか、中には外国からはるばる参加した偏向的に反共的で長期にわたり米国務省から金をもらっている学者ロバート・スカラピーノもいた。
 反“脅威”派はただひとり、私だけだった。

またしても私は一人だった。一緒にプレゼンテーションをやってくれないかと私が誘ったフィツジェラルドは、用心深く依頼を断ってきた。
 その時私が発表したペーパーはこの同じウェブ・サイトで見られる。私はその準備のためには膨大な時間をかけた。しかし私はよけいに、ベトナムでますます拡大する暴虐に対する心痛に圧倒されてもいた。私のいちばんの目的は、いまや既成概念のようになっている“世界は、そしてオーストラリアは、中国の本質的攻撃性と、共産主義という重大脅威といま向き合っている”という俗説を論破する試みだった。

当時オーストラリアの反中国ヒステリーの大部分は、中ソ論争の意見対立から来ていた。ベトナム戦争支持の陣営は、常々、この論争で北京が発した激しいことばを繰り返し引用しており、中国のこうした激言は文字通り受け取らなければならない、と主張していた。
 これが、1962年の中印国境紛争の大幅に歪められた通説とあいまって、過激な北京は、より穏健な欧米的共産主義のモスクワと比べて、はるかに左寄りだ、という根深い誤ったイメージを作り上げていた。

 この考え方が、AIPS会議のテーマの根底に流れていた。──アジアで、オーストラリアはこれまで世界が経験したことのない毒のある共産主義に出くわしている。西側諸国は、このアジア製“ウィルス”が、具体的にはベトナムで、拡がるのを止めるために(その不運な国で実際に起きていることの良し悪しには関係なく)、あらゆることをしなければならない、というわけだ。
 これに対する私の反論は、AIPS会議のペーパーで、また他の場所でもいっているように、私が人々に集中して焦点を当てて欲しかったのは、中ソ論争の中で双方が実際に言っていることを正確に検証してほしい、ということだった。そうすれば、双方が共産主義の異なったバージョンにこだわりをもち、自分なりに展開し、互い点数を稼ごうとしているだけ、ということがわかるはずだ。どちらの側も共産主義であることにいささかも違いはなかった。実際、内容を注意深く読み取れば、モスクワの方が過激派で、中国が穏健派だということが容易に読み取れるのだった。

その当時とくにキャンベラがこだわっていた一事は、北京が国民解放戦争ということを声高に支持していたことだ。しかし私がペーパーで指摘したように、モスクワも全く同じ解放戦争ということを唱えていたし、声の高さも同じだった。
 同様に、モスクワは北京よりもはるかに、こうした戦争を物質的に支援していたし、特にベトナムでそうだった。とにかく、双方とも、反共産主義的活動で常時脅かされているこの世の中で、親共産主義的政権が出現することを歓迎する権利は平等にあるはずだった。
 
前に述べたように、中ソ論争についてこのような研究は私はすでにモスクワ時代に始めていた: 外務省にもこのテーマで報告を書き送っていた。外務省はこれを、毎月各大使館その他に配布する「外務省広報ダイジェスト」に載せてくれたのはありがたかった。
 
これはおそらく、オーストラリア外交政策の知恵への私の貢献、おそらく唯一の貢献ではないかと思う。それが外務省の反中国偏見に対して‘はとに豆鉄砲’の効果だったとはいえ。
 
その日キャンベラのAIPS会議に集まった偉い人たちの聴衆にとって、私のこうした研究はやっぱり効き目がなかった。アジア覇権を狙うアジア的怪物として北京を見るイメージは、あまりに深く人々の頭に焼きついていて、抽象的な中ソ論争の発言を取り上げてみたところで揺らぐものではなかった。
 
偉い聴衆の前で、反ベトナム戦争の理論を展開することは単に時間の無駄だったばかりでなくし、チャンスも失ったということだ。失敗だった。私は話す努力をしなくてもよかったのだ。

このことはシドニーのレクチャー・ホールでアレックス・ケアリーが経験したジレンマを思い出させた。──聴衆は私の方がずっと多かったし、ハイレベルな人たちだったが。オーストラリアは、共産主義とか革命とかいう議論を適切に取り上げるための国際問題感覚が育っていない、というだけのこと。そして体制側の陣営は、その無知さをよいことに、現状維持を画策するのみである。
 
シドニー・モーニング・ヘラルド紙のピーター・ヘイスティングス── ASIOの息のかかった、オーストラリア外交政策の世論形成に影響力を持つ多くのジャーナリストの一人── は、この会議の親ベトナム戦争派のペーパーすべてに詳細なコメントを発表した。ただひとつコメントされなかったペーパーは、私のものだった。この論争の反対の側を代表した唯一のペーパーだったのだが。
 
AIPSトーク・イベント時代の大きな出来事(論争点)は北京の激しい反米主義だった。これも、北京の“本質的攻撃性”の現われとして、繰り返し引き合いに出された。
 
ふりかえって、あの素朴な時代、オーストラリアで反米であるということは、“反神様”と同じことだった。何と言っても、アメリカは、たった一世代前、われわれオーストラリアを日本の攻撃から救ってくれたではないか? というわけだ。
 
みなあまり気がつかないようだが、攻撃的怪物とイメージされている中国は、この日本の攻撃に反撃しようと、われわれとともに戦った同じ中国人ではないのか、ということだ。
 
さらに人々が思い至らないのは、北京は、前の内戦でアメリカから残酷な介入のよって痛めつけられ、今なお禁輸措置を受け、台湾に対する正当な権利を拒否され、台湾を攻撃するぞという絶え間ない脅威を受けているのだ。その北京が、なぜ、この問題の根源に対し激しいことばを少しばかり発したくなるのか、ということだ。
 オーストラリアの洗脳されやすい大衆や弱々しい多数の学者たちの頭の中では、北京が反米なら、それは北京が攻撃的で、拡大主義で反オーストラリアであることの証拠だ、となる。
 
AIPSでの私の努力に対し、左派陣営からさえほとんど反応がなかったことは、私を深く失望させた。 
怒りに任せて、私がAIPS報告で言及したのは、オーストラリア外務省にアジアのことばを話す職員が足りないのはスキャンダルだ、ということだった。あの当時、ベトナムの大失敗以前の無心な時代、ウォーターゲートも知らない時代、トップに立つのは情報や経験も豊かで何が起こっているかわかっている責任感のある人たちだ、と人々は素朴に考えていた。
 そういう人たちが中国は攻撃的だというのだから、中国は攻撃的なのだろう、彼らがベトナム介入が必要だというのであれば、それは必要なのだろう、と。
 
この初心さ加減に対抗する唯一の方法は、トップの人々は世界で何が起きているのか、ほんとうはよく知らない、ということを証明することだと私は考えた。彼らは、平気で糾弾している当の国々のことばさえ分からないのだ。
 
当時まだプリムソルが事務次官だった外務省は、アジア現地語を少しでもたどたどしく話せる人間をアジア語堪能者としてリストアップし、文書で反撃してきた。ヘイスティングはそのリストを公表、クラークというものがAIPSで話をした事実をようやく認めて、それに付け加えて、クラークは明らかに間違っている、外務省の資料がそれを証明していると語った。
 
「オーストラリアン」紙のディーマーは、親切にも、同紙に反論の紙面を与えてくれたことはありがたく、この時はやっとフィッツジェラルド説得が成功して、彼の名を借りることができた。しかしながら、ダメージを受けたことに変わりはない。

本を書く? 
総じて言えば、これらの日々は暗かった。

幸いなことにこの頃私は、ロシア語会話を練習していたあるウクライナ女性が経営していたシビック・センターの小さな喫茶店でパートで働いていたRと知り合いになった。Rのやさしい女性らしさは、私の痛めつけられた精神にとって大きな慰めとなった。
 
次第次第に私は、ベトナム反戦ということを適切に取り上げようとするなら、中国問題を真正面から的確に取り上げなければ済まない、と思い至るようになった。そのためには本を書くしかない。
それには、これまで書いたり語ったりしたことを寄せ集めるだけではだめだ。「オーストラリアン」紙などで発表してきた記事や論文を集めるだけでもだめだ。

本の中で、北京の外交政策論争をさまざまに取り上げ、その背景を全て説明することにしよう。朝鮮戦争、チベット占領、台湾問題、中ソ論争、中印国境紛争、に関して私が知っていることを全て、中国の共産主義革命のルーツまで遡り、詳しく検証する。

全体としてみるとき、この本は、これらの紛争・論争が全て互いに関連している、そしてそれらが北京は自国の領土と国境を守る正当な権利がある―― それが朝鮮であれ、台湾、インド、チベットであれ、―― という一転に帰結することを明示してくれるだろう。とくに台湾に対する非常に正当性のある中国の立場は、欧米諸国が中国を本質的に好戦的だと見たがる諸々の出来事を読み解くカギだ。

こうした細かいことを逐一説明すれば、北京の態度は、毛沢東の狂気の時代さえも含めて、その意味がわかってくるだろう。北京の態度がまともさを保ちえた部分があるとすれば、ひとつには、外交政策の分野で、周恩来と鄧小平というふたりの知性的な穏健的な中国人による領域が残っていたことが非常に大きい。

しかし問題は、PhD研究者として、高レベルの経済学に取り組み、日本語をマスターし、日本の海外直接投資という難しいテーマに関し、文献・データを集め、今なお関わっているベトナム反戦の論争はもとより、そういうことを続けながら中国の外交政策についてまともな本を一冊書き上げる時間が取れるか、ということだった。
3 PhDへ復帰

幸いに、この諸問題の研究サイドが一部、特に経済学に関して、解決に向かう兆しが見えてきた。

PhD研究生へ専門的経済学を教えることを任された、ある典型的なANUの理論経済学者との忌まわしい経験をした後で、(この連中は、経済活動の現実の血の通ったことばと大きくかけ離れた経済理論の何かあやふやな一点を取り上げて、証明するというだけのために黒板いっぱいに数字を埋め尽くすのだった)私はANUの貿易経済学のエキスパート、マックス・コーデンの手に身柄を移された。

コーデンも経済理論を好む点ではおなじだった。だが彼は、グラフや図表を使って、ものごとを簡単にきれいに説明して見せた。そのため私は、理論とはどういうものか、はもとより、科学としての経済学の理論的美学のも目覚め始めた。
 
変数を正しい因果関係におきかえることによって、複雑な経済状況を正しく分析することがいかに可能になるか、を学んだ。それは後に日本経済を理解する上で、実に大きな助けとなった教えだ。

マックスはまた、非常にモラルの高い人間だった。彼もベトナム戦争のことで悩んでいた。とはいえ彼の数学的頭脳は、諸々の政策論争の背後にある偏見と感情のありようを完全に把握するには向いていなかった。

彼が信じたかったことは、経済学と同じように政治的変数を正しい時系列に配置すれば、結論はおのずから出てくる(QED)というもの。ところが外交問題ではこの種の論理的分析が使える部分はごく限られていた。
日本語を学ぶ

この間私はまた、日本語習得の面でも懸命に努力していた。最初は辞書と中国文字(漢字)の知識を使って、経済学のテキストに取り組もうとしてみた。これは全く効果が上がらなかった。

まもなく、この言語は、研究調査のために使えるようになる前に、生きたことばとして、最初から学ばないとどうにもならないということを思い知らされた。中国語とロシア語を学んだとき発見したように、難しい言語を読むためには、その文字を“見れば”その文字が話されているように“聞こえる”段階にまで到達しなければならない、ということだ。

それをやれば、意味は自然と通じてきて、誰かがそれを行っているのをゆっくり聞いているみたいなものになる。しかしそれをやらないと、それぞれの語をいちいち意識の力でひとつの文にまとめ上げ、ようやく一定の意味が通じるようになる。それはとても辛いし骨の折れる、とても時間がかかる。キャンベラにいたままで、いかに日本語を基礎から学べるものか?

私の最初の行動は手始めに大学の日本語学科のコースを取ることだった。私は日本語の表音文字「かな」をすでに学んでいたので、また中国の文字(漢字)を知っていたので、日本語購読コースの2年次に入れてもらった。

それがまちがっていたことはすぐわかった。そのコースはアジア諸国のことばの教育について、当時オーストラリアの大学がいかに犯罪的とも言えるほど無責任にやっていたかを示す典型的な例だ。(幸い現在はいくつかの大学では改善が見られるが)


われわれの“先生”は、東京から多大な費用をかけて採用された日本人の役立たずの学者だった。彼の人生の主な目的は、象牙の塔の住人として威厳を保つこと、英語力を磨くこと、そしてわれわれが学ぼうとしている言語がいかに遠大で、洗練されており、学ぶのはほとんど不可能ということを納得させることだった。
毎授業ごとに、非常に難解な日本文学から一節を選び、訳させるのだった。ひとり一文を、学生に次々と割り当てた。
学生は自分にどの文が回ってくるか前もって数えて、その順に席を取る。つまり、自分に割り当てられるひとつの文だけを訳しておけばいいわけだ。つまり一回の授業で2文ほど準備しておけばよかった。
象牙の塔の主は、続いて、長い時間をかけて、その文の一つ一つの語彙や文学表現の繊細さを、英語で説明する。そして最後に、その文に対する自分の公式訳文を発表し、われわれ全員それを従順に書き記す。

最終の試験では、“先生”はその学期中に授業でやったほんのわずかばかりの文学のテキストの一部を問題に出して翻訳させる。いうまでもなく、教科書の日本文学の中の日本語を使いこなせる学生は、一年間の授業が終わった後も、だれ一人としていなかった。
しかし、試験のときまでには、学生は一年間に受けた授業で忠実に書き写した“公式訳文”を暗記していた。だから、その暗記したものをそのまま書いて出せば、合格はまちがいなしだった。
“象牙の塔”の主は世界に向かって、自分の学生はたった一年でこのような難しい日本文学を簡単に訳せるレベルにまで上達させた、と胸を張って見せるのだった。そして大学当局を含めて世界は、実際の授業で何をやっているか知らないままに、彼を信じるのであった。
彼の学生が、簡単な日本語の文をたどたどしく発することさえ、また簡単な日本語の文章を1ページ訳すことさえできない、という情けない事実は知られないままに終わる。

最初私は、自分で学費を払っている学生たちが、このナンセンスを続けていくとは信じられなかった。だが、彼らに必要なのは、合格して卒業のための単位をとることだけ。後になって私は、日本の大学の若者が大学で英語を学ぶスキャンダル的やり方を見て、これを思い出した。

それは、これ以後私が強く自覚した核心のひとつだ:難しいことばを学ぶ際に、まちがったやり方でスタートさせれば、それを修正して出直すのはほとんど不可能ということ。

自分はこのインチキ方式に従う必要はない、と決断するのに3週間もかかった。自分ひとりで、前にロシア語を学んだときはじめて使った方法でやってみよう。
授業をやめて、ある感じのよい日本女性を見つけた。元日本駐留のオーストラリア兵士と結婚したクローフォード夫人だ。ロシア語を学んだときガパノヴィッチ夫人としたように、毎日かんたんな日本語のテキスト文をテープに吹き込んでもらう。それを一週間繰り返しよく聴いて、文法や語彙をチェックし次回レッスンのときにその内容についてあれこれ話す。

当時の私の生活は、他に多くの関心事があり、日本語の勉強は大きな進歩はあまりなかった。けれどもとにかく、大学のあの授業を受けていた連中にはできなかったよいスタートを切ることができた。

以後、折に触れて、オーストラリアの大学の大半で、中国語や日本語を教えるときの犯罪的にまずいやり方を指摘しようとした。だが、暖簾に腕押しだった。
唯一の結果は、アカデミズムの体制派をいらだたせ、私に向かって一斉に集中攻撃がとんでくるはめになっただけだった。

これ以後の年月に発見したように、オーストラリア人は批判されると、泣くか怒るかのどちらかだ。なぜ批判されるのかについては、あまり反省というものがない。

クローフォードがANUの学長だったとき、一度彼に対して長い手紙を書いた。―― 何とか彼が介入して、単に学生のためだけでなくオーストラリアとアジアのために、この現状を変えて欲しいと―― と。だが返事はなかった。
中国の本

こうしている間にも、わたしはもっと大きな問題を抱えていた。―― オーストラリア人に中国と中国の政策を説明すること。本を書くことは、たとえ頭の中に材料がほぼ準備できているとはいえ、多大な時間とエネルギーを必要とする。

当時はコンピュータにタイプするわけにいかなかった。インターネットで検索という方法もなかった。全て旧式の手作業のタイピングと、図書館での調査しかない。Rは手伝ってくれるという。しかしそれで十分か。

私には本を書くという経験も乏しかった。外務省時代に提出物やレポートを書いたことはある、しかしそれは本を書くにはあまり参考にならない、というより、今でも思うが、とてもまずいやり方だ。

それに私には出版社もない。

さらに問題があった。本をかくとなれば、PhD奨学金勉強期間から一時休暇をとる必要もあるだろうし、それが認められるという保証もない。

ベトナム反戦活動に従事することで私は,J.D.B.ミラーと国際関係学部から勘当の身だった。そしてクロフォードとは、すでに対立していた。そして今、私の専門が日本と経済学であるべきはずの時に、中国とその外交政策に関して本を書こうと許可を求める、ということは、、、。

一方、ベトナム戦争とオーストラリアの政治状況は、日一日と醜悪さを加えていた。誰かが反政府の立場で立ち上がらなければならない。私はずっと傍流のままでいられるだろうか。

転換点となったのは、ANUの中年の中国歴史研究者ロー・ホェイミンからの、アジア研究部でセミナーをやらないかという誘いだった。

ローは純粋な中国人。ローは私が政府の中国政策を批判して政治的反撃を招いていたことに対して、常々心配していた。(中国では権力者たちに近づかず身を処すのがサバイバルの眼目とされてきた) とはいえ、彼は私のやっていることを評価してくれていて、少なくとも大学内では、私に発言の場を与えようと考えていた。

セミナーのタイトルに、中ソ論争を選んだ。もっと早くからやるべきと思っていた宿題をはじめるモチベーションが得られた、と私は勇みたった。―― その論争で誰が誰に何をいったとかいう事よりも、その発生の原因に集中的に焦点を当てて取り上げたい。

その論争が、私が発見したように、イデオロギー的なものでないとすれば、一体何が原因か?
中ソ論争の起源

当時の通説では、オーストラリアでもどこでも、その論争は1956年にニキタ・フルシチョフがスターリンの罪を積極的に批判し始めたときから始まったとされていた。毛沢東はこの共産主義の正統派に対する正面切っての攻撃について憤慨している強硬派だ、と考えられていた。毛はまた、共産圏のリーダーシップを取ろうとするモスクワの態度に対して怒っていると思われていた。

後になって文書を読むと、中国が1956年のスターリン批判攻撃について完全によろこんではいなかったということがはっきり確認できる。中国人は、ロシア人とちがい、スターリン時代の何十年もの独裁と殺戮の狂気の被害を受けたわけではなかった。しかし、フルシチョフの反スターリン主義に対する不快感が決定的要因であるという可能性は考えにくい。

というのは1956年の時点ですでに北京は、国内政策や外交政策において、いくつかの合理的な現実主義を示し始めていた。1957年の世界共産党会議において中国は、共産圏のリーダーとしてモスクワを名指しで確認していた。1956年1月に至るまで、毛は、モスクワに対し、ソビエト共産党のリーダーシップを讃えておびただしいメッセージを送り続けていた。

たしかに、全ての政治的イデオロギーは偶像が必要だ。あの当時は偶像といえば、スターリンとレーニンしかいなかった。しかしスターリンは中国の共産主義者を助ける意味では、1949年の前にも後にも、ほとんど貢献していない。では一体なぜ彼らは、フルシチョフのスターリン批判にそれほど怒ったのか。

たしかに、後の段階で、毛沢東とフルシチョフの間は個人的な嫌悪と競争意識が強くなっていた。だがそれが明白になったのは、その論争が始まってから後のことであり、その前ではなかった。

たとえば、1957年6月、北京はフルシチョフがモスクワの強硬派―― モロトフを中心とした反党グループ―― と生きるか死ぬかの対決をしたとき、フルシチョフにとって決定的だった支援を与えている。もし北京が1956年から反フルシチョフ的強硬派だったとすれば、1857年の強硬派による攻撃を受けたフルシチョフをわざわざ助けるか。

また北京は、モスクワと対立していたいくつかの東欧の穏健的共産主義政権を支援した。これらすべての行為は原理主義的マルクス主義者の中国がモスクワの軟弱路線とイデオロギー的に対決しようと決断したのだ、という説を支持することに大きく貢献するものではなかった。

だとしたら、この論争を引き起こしたのは何だろう。また、なぜそれがこれほどえげつない泥沼になったのか。この原因を探すために、私は、1957年6月から、論争が火を噴出した60年代初めの出来事を、事細かにたどってみようと決心した。そして、そうすることで、疑問が残る部分を大幅に狭めることができることがわかった。

1957年10月15日フルシチョフは彼に反対する強硬派たちを追放した後まもなく、北京に対し、核兵器開発の援助をする約束をした。それは、現実には、北京が核の脅威にさらされたとき核の力で支援する、という約束でもあった。

フルシチョフはまた、共産主義発展の中で、中国式モデルが有効だと確認を与えた。これは明らかに、1957年6月に彼が北京から受けた支援に対する感謝の行為でもあった。

ところが1959年6月20日ソビエトは中国との核協力の約束を取り消した。そしてまもなく彼らは、中国的共産主義モデルをあからさまに批判し始めたのである。

あの論争の原因は、1957年6月から59年6月の間に起こった何事かが発端となったのは明らかだ。それは何か。

慎重に消去法で一つ一つ消していって、最後にたった一つの出来事に行き着いた。―― すなわち、1958年8月北京が台湾海峡の沿岸諸島を巡って、アメリカに支援された台湾と対決した事件。私がまだ外務省にいた時分すでに、この対決の重要な時点で、アメリカが中国に対し核攻撃も辞さないと威しをかけたらしいことは聞いていた。

一方でフルシチョフは、ワシントンのアイゼンハワー政権とデタントを実現するための模索に動きだしていた。―― その試みは1955年の冷戦解消の「ジュネーブ精神」にはじまり、59年9月のあの有名な「キャンプデービッド」で頂点に達する。このキャンプデービッドの僅か3ヶ月前、フルシチョフが北京に約束していた核援助を取り消したのである。

この因果関係は、明らかだと思った。いいかえれば台湾海峡危機によってフルシチョフは自分がした中国への核約束の意味をはっきり意識させられた。―― つまり、彼がアメリカと緊張緩和に乗り出そうとしているまさにその時に、そのアメリカとの核対決の際中国を援助するという約束をしようとしている。

これがいわゆる中ソ論争の起源だということは、これに引き続いた論争の中で確認されていた。その中で中国の発言に頻繁にくり返されたのは、アメリカを信じその侵略をなだめようと懸命になっているモスクワの愚かさ加減というテーマである。

つまりこの論争は、一方が他方よりイデオロギー的により穏健だとか過激だとか、より本質的な攻撃性をもっているとかいうことではない。ここでは真っ向から、国と国との利益の衝突という事態に行き当たる。 北京は台湾事件でアメリカとがっちり対決― この事件で非は明らかに、北京ではなくアメリカにあった― そしてモスクワは、もっともなことだが、アメリカとのデタントに取り組む。

双方ともそれなりの理由があってそうしていたわけだ。しかしそれぞれのやったことがお互いを対立させることになった。

59年6月20日以後の北京のフルシチョフとソビエト嫌いはこの論争の原因ではなく結果である。

当時北京は、アメリカの核戦争を恐れてはいいということを強く主張していた。; たとえ多くの人命と産業を失うとしても中国は生き残る、と。われわれのタカ派は(そしてある程度モスクワも)これにすぐさま跳びつき、これは北京が本質的に冒険主義だという証拠だと、主張。

しかし核攻撃の脅しを受けていて、且つ核兵器で立ち向かう方法がない場合、その脅し主の気を削ぐためにやれることといえば、核兵器なんか怖くないということだけだろう。

(冒険主義者といえば、核攻撃を仕掛けている側だ。だがあのころは、欧米でそうしたことを口にするのは許されていなかった。 アメリカは心が純粋で、万能だと思われていた。)

いうまでもないが、このような詳細な事実分析は、ローのセミナーに参加していたANUの学者たちの頭の上を素通りした。とはいえ歴史家としてローは私が掘り起こした資料を貴重だと見抜いていた。彼はこのことはどこかで本として出版すべきだといった。私もそう感じていた。

当時はメディアばかりでなく、圧倒的多数の中国研究者は、穏健なモスクワに対立している強硬派中国という一般通念を信じていた。私の資料はこの通念を破るだけでなく、当時の冷戦の力学に対し非常に貴重な洞察を提出していた。
あえていえば、これは大きな意味を持つ画期的な歴史的政治的分析だった。どうしてもこれを、いつかどこかで出版しなければならない。

(最近中国人研究者が数名これと似た文献を発表した。しかし私の知る限り西側で詳細な研究をした例はない。論争を研究し、これは中国の攻撃性を証明していると結論付けた研究を以前に出版したドナルド・ザゴリアのような中国研究者たちがいまだに中国エキスパートとして通用しているありさまだ。)

しかしここでもう一度、先ほどの自分の問題に戻ってみよう: 中ソ論争を説明するためには、中国の他の外交政策論争、とくに台湾問題の背景をじっくり説明しなければなるまいし、それには本がまるまる一冊かかる。 

その準備をするために私はANU当局に休暇を申請した。クロフォードは非常にしぶしぶながら、最大6ヶ月の休暇を認めてくれて、その間は奨学金は差し止めということになった。
ここで付け加えておきたいが、ANUにいた4年間で私の中国観に真に興味を持った人はローただひとりだった。元外務省の中国デスク担当官であり元モスクワ駐在一等書記官として私は興味深い情報をたくさん持っている存在であったにもかかわらず、このASIOに侵された情けない国際関係学部の連中に話をする機会は、一度たりともなかったのである。

この学部の中で私の持つ情報に関心を示した唯一の人間は、アメリカ人ハンノ・ウェイスブロットだった。彼が書いた60年代初めのラオスにおけるアメリカとオーストラリアの共同介入についての労作は後の米豪のベトナム介入の鍵となるものであったが、それにふさわしい正当な評価は得られていない。
5 ジム・ケアンズとエンクレイヴ(領地分離)解決法

一方ANUの外では、私は引き続きベトナム戦争への戦いに取り組もうと努めていた。非常に左寄りのALP幹部の何人かと知り合いになった。彼らを通して、後にホイットラム政権で副首相を務めたジム・ケアンズと知り合った。彼はその時ベトナム戦争に論理的に反対していた、ALPの有力な論理的声だった。後にケアンズとの付き合いの中で、彼の性格の中に、とくに女性関係でだらしない面があることに気がついた。75年のモロシ事件が起こるはるかに前だった。究極的にはそれが彼の政治生命の命取りになった。

とはいえそうしたことにかかわらず、彼の政治的見解と論理は整然として明快だった。彼の著書「アジアと生きる」はアジアの左翼的反政府蜂起と革命の力学を見事に分析したばかりでない; それはまた20年代30年代のソビエト共産主義の発達をたどって、私が読んだ中で最良の本の一つだ。

このメルボルン出身の独学の元警察官が、地球の裏側の外国で、別の時代に起こった出来事をこれほど詳しく知っていることは驚異的だった。それなのに、右派陣営はもちろんだが、左派陣営からも、彼の研究に対してそれ相応の評価が得られなかった。

ベトナム戦争の進行中、その戦争に対する原則に乗っ取った彼の反対論は、オールド左翼の典型的な、風変わりな泣き言として一蹴される運命だった。その一掃作業をやるのは、体制派の学者たちで、彼らは大衆蜂起や革命の力学はもちろん、共産主義とその起こりについてまじめに研究しようと心を砕いたことなどないのを誇りにしていた。

ケアンズとビクトリア州ALP(オ労働党)幹部を通じておそらく必要以上にALPの内部抗争に引きずり込まれていった。でも私はベトナムについて緊急に論争を起す必要に突き動かされていた。

それは時間との戦いだった。アメリカ軍の兵器は南ベトナムの大衆蜂起を圧殺する力を持っていた。ちょうど英軍があらゆる暴力手段を使ってマラヤの蜂起を潰すことに成功したのと同じだ。

ところがマラヤでは戦争の姿と暴力はおおよそ、隠されていたのと違い、ベトナムの場合時が経つにつれてその地で現に何が起こっているか── つまりサイゴンの腐敗した弱体政権を守るためにまさしく正当性をもつ自然な抵抗運動が残酷極まりなく攻撃されているという事実── を、西側の人間が知る可能性はあった。

現地から第一線のジャーナリストがこうした事実側面を詳しく報道を送り始めていた。現地にいる兵士や役人たちもこの事実を次第に理解するようになる筈だ、と私は考えた。

同時に私は、アメリカをベトナム介入へ狩り立てる上で、オーストラリアが非常に重要な役割を演じたことをすでに知っていた。戦争のこの真実がオーストラリア国内で広く知られるようになれば、オーストラリアの世論が変わる可能性があるし、するとオーストラリアの反戦陣営がワシントンの戦争観をゆさぶる強い影響力を持つことも大きな可能性として見えてくる。

夢物語か?もちろんそうだ。というのはその後まもなく、はっきりとしかも最悪の形でわかったことだが、オーストラリアの世論と呼ばれる、知能的で道徳的な沼地の中では、いかなる意味のある議論も起すことは不可能だということである。
エンクレイヴ(領地分離)解決法

始まりは66年半ば、シドニーでブライアン・ジョーンズと偶然出会ったことだ。彼は当時シドニー・モーニングヘラルド紙のキャンベラ特派員として名を立てようと努めていた。

ジョーンズにはじめて会ったのは、57年のキャンベラで、私はまだ外務省の新米で、彼の方は政府の情報官僚の道を歩き始めたところだった。われわれ二人はお互い結構うまく気が合った。(そのころ彼はアイルランドカトリックの重圧と正規の教育を受けていないための劣等感を背負っていた。)

75年になって彼が、ホイットラム政権のスポークスマン兼メディア担当になったとき、われわれ二人は一時期ともに仕事をして、例のベトナム電報事件(後に詳述)では、私に責任を押し付けてしまうことになる。彼はその後、私はふたたび東京へ戻った時は、ALPメディアのボスになり、ABCのトップになった。

ジョーンズはこの時期には、典型的な中道派穏健派オーストラリア人だった。
心の深いところでは、彼は黄禍論や反共主義者に共感を持っていた。けれども政府の政策を支持していると見られることは嫌だった。大半のジャーナリストと同じで、左翼的な集団と交わることが好きだった; 多分そうしたグループはよいパーティーを開き、多くのおもしろい人々を集めていたからだろう。

私は彼とベトナムについて話を始めた。彼に、キャンベラが65年、アメリカがやろうと思っていた以上に深くベトナムに介入するように焚き付けるのに重要な役割を演じたことを話し、そしてこの戦争のこの真実をオーストラリアの世論が知れば、キャンベラは戦争を終わらせることも不可能ではない、と話した。
しかし一刻も早くなんとかしなけれならない。毎日全く意味のない理由で、何千人ものベトナム人が殺され爆撃されている。君の新聞で、ベトナムでほんとうは何が起こっているかをもっと直に詳しく取り上げることはできないか。

こうしたことすべてをジョーンズに、悩みを吐露しているとき、彼はいい加減にしかわたしの話を聞いていないようすだった。話し終わると、彼はいった。「グレッグ、ベトナム戦争に反対するのはいい。だがそれなら、君は対案を出すべきだよ。オーストラリアやアメリカに単にベトナムから出て行けというわけにはいかないよ。」
彼のいうことは政治的には正しかった。アメリカの顔を立てつつ、反共産主義のベトナム人の生き残りも保証するような代案を用意する必要がある。そしてもし運よければ。私がその代案を持っているのだ。私はそれをエンクレイヴ(領地分離)解決法と名づけていた。

外務省にいたとき私は、台湾が果たし得る役割に注目して、それを提案もしている。(仮に台中間に何らかの接触と交流が生まれれば)中国が時折見せる、経済政策やその他の政策への“突き”を台湾が和らげる仲立ちができるのではないか。(だがこの提案はタカ派的な上司たちには何のインパクトも与えなかったのは残念なことだった。)
また、アメリカが台湾を、中国攻撃のための最前線の足場として利用しないことを何らかの形で保証できれば、北京が時折見せる反欧米的な“発作”も緩和されるのではないか。
さらによいのは、アメリカが将来的に中国と台湾が統一されることに反対しないことを示せば、さらによい。
この理想主義的な台湾モデルをベトナム問題の解決のモデルとして打ち出すべきではないか。

この提案の力学はごく単純なものだ。まず第一段階として、ベトナムで戦われているのが内戦であることを欧米が認めること。欧米は南ベトナムが親共産主義的敵に勝つことを望んでいるが、サイゴン政府を支援するのは、親共産主義派が外部の支持者から受けているだけと同じだけの支援にとどめること、である。

サイゴン寄りのベトナム人がこの内戦において自分たちは勝てないとわかった段階で、欧米はこう宣言する。: 公平な条件で戦われた内戦の結果は受け入れるしかない、反共主義派のベトナム人が敵によって全滅させられるまで戦うのを見るのはしのびない。

この悲劇を防ぐために、西側は彼らに一つのエンクレイヴを用意する。── つまり小さな“台湾” のような── 沿岸部の一部を彼らに割り当て、そこで反共主義のままで生存し再組織することができるようにする。

それ以後は、ベトナムにおける欧米の介入は限定的にし、このエンクレイヴの境界線を守ることに限って行う。一方戦争遂行のために費やされている費用の大半はこのエンクレイヴが適切な経済を作り出すのを助けるために当てられる。やがては、ちょうど中国が台湾に対してやろうと考えているような方式で、これがベトナムの他の地域に対して、経済・社会モデルを提供することさえできる可能性がある。

この案はハノイから、またベトナム内の他の親共産勢から受け入れられるだろうか? ほぼ確実に可能だ、と私は考えた。
彼らにしても戦争に疲れている。それに受ける打撃も大きい。将来的に統一できるという何らかの保証があれば、あるいは最小限、たとえば20年限の連邦化の協定のようなものが合意されれば、彼らとしては目的が達成されたと感じることができるだろう。
その間に彼らは、ベトナムの残りの地域に関して彼ら自身の政府を樹立することができるだろう。戦争の憎しみはやがてうすれていくだろう。

私はこのエンクレイヴというアイディアを当時野党だった労働党(ALP)に売り込もうと動き出した。最初にケアンズのところに行った。彼はALPの左派と親密なコネがあったが、この妥協的な解決方法の利点を理解してくれた。

しかし彼は、この案はまず、ヴィクトリア州のALP幹部に売り込む必要がある、といった。そしてそれ以後これをALP政策として推進の努力をしようといった。

ケアンズはこの第一段階までも行かなかった。あとで聞いた話だが、彼がヴィクトリア州のALP幹部へこの話を提案したとき  最後により過激な左派的な一人が、皮肉を込めて礼をいい、こういったという。── 政府の政策を説明してくれてありがとう。では次に左翼の政策を説明してくれないか、と。
その後しばらくは、ケアンズから連絡がなかった。

私はもう一つ別な手を打とうと決めた。その年には、選挙が待っていた。時の首相ハロルド・ホルトは彼の有名な親ベトナム戦争スローガン“オール・ザ・ウェイ・ウイズ・LBJ”(ジョンソン大統領と一行二人で)のラッパを高らかに鳴らしていた。

選挙が近づくにつれて、ジョンソン・アメリカ大統領が、ホルトのベトナム介入政策を支援するためにオーストラリアへ降り立つところだった。
その訪問中ジョンソン大統領はALPにも会ってもいいといっていた。だが、ALP指導者アーサー・コールドウェルは、以前から、この醜い勝ち目のない戦争からオーストラリア軍を引上げようと呼びかけていたが呼びかけは効果がなかった。だから彼がジョンソン大統領にその呼びかけを繰り返しても、さらに効果はなかっただろう。歴史は彼が100%正しかったことを証明しているが。

一方コールドウェルの後任と目される男、労働党の外交政策のスポークスマン、ゴフ・ホイットラムは、ただ頭を低くしているのみで、何もいわなかった。敵の攻撃を受けるのはコールドウェルに任せていた。

私の考えは、ホイットラムを取り込み、ジョンソン大統領との会談の前に、彼にエンクレイヴ解決法の利点を納得させようというものだった。ジョンソンは明らかに拒否するだろう。だが労働党は、自分たちはワシントンに対し中庸的な解決案を示したが拒否されてしまった、という事実を持って選挙に臨めるではないか。
その結果ワシントンは可能性のある解決法に興味がないことが証明された、となると労働党は自国軍をベトナムから引上げたいといっても、正当化できるではないか。

私の最初の問題は、まだ私に会ったこともなく、とくに会う必要も感じていないホイットラムにどうアプローチするかということだった。エリック・ウォルシが、ホイットラムの秘書のジョン・メナデューに紹介してやろうといってくれた。

メナデューは内々で私に会ってくれたが、私の提案をホイットラムに伝えようといってくれた。しかしメナデューからもホイットラムからも反応はなかった。労働党は選挙で大敗した。

選挙は終わったが、私は依然としてそのアイディアを何とかしたいと考えていた。「ジ・オーストラリアン」紙の紙面を提供してくれるように、ディーマーにしつこく迫った。彼は私の希望を受け入れてくれた── しかもほとんど全ページを提供してくれた。

しかし、今回も、反響は薄いものだった。ANUの国際関係の学者から愚痴っぽい手紙が届いたが、彼は(解放戦線側の)共産主義者はこの案を決して受け入れないだろうしエンクレイヴはどっち道無防備になるだろうから、私のアイディアは失敗に終わるだろうとの意見だった。

戦争賛成派の他の連中については、想像するに、私の妥協的提案は、必ず来るべきアメリカの血まみれの勝利の機先を制するための左翼的からの不吉な提案だ、というふうに見られていたと思う。

それはまだ66年の時点であり、もしアメリカの介入と殺戮がこのまま続けば、アメリカの圧倒的勝利に終わると、ある程度私も含めて、ほとんどの人が考えていた。

数年後、アメリカとそのサイゴンの友人政権が、面目ないかたちで完璧に戦争に敗れた後、ベトナム戦争タカ派の連中に対し、もしかして彼らの良心をちょっぴりでも呼び覚ませるかと、聞いてみたことがある── あなたがた反共陣営のベトナムの友人にとって、(私が提案したような)妥協的な解決方法を検討していたなら、これよりはるかによい形になったと、そうは思わないか、と。
だが、ここでもまた、彼らからの手ごたえゼロだった。思うに、タカ派であるということは、本来的に、悪かったとかまちがっていたとかいうことを認めない性質があるのだ。
6.出版社を探す

こうする一方で、自分の中国著書の原稿を、疲れも知らず愚痴もこぼさぬRの助けを受けてコツコツ手をいれ続けていた。

ANUからもらった6ヶ月という時間は早くも過ぎた。PhD.研究ための時間にすでに食い込んでいた。その上、依然として出版社は決まっていなかった。

少し前にメルボルンに本拠を置くランスダウン出版社の、非常に精力的でリベラルなマネジャー、ロイド・オニールからオファーを受けていた。彼とは、あるベトナム反戦の集まりで出会ったもので、彼は私の考えていることを本にする手助けをしたいと熱心だった。

しかしランスダウンは通常は大衆的な出版── スポーツ、自然、児童書など── を主として扱っていた。中国の外交政策などという固い本はなじまないようなところだ。それでもオニールは本を出したいと熱を込めて語った。

本を書き進むにつれて私の疑問は強くなった。私のやろうとしているのは、かなり本格的な学術的分野に属する。ランスダウンはほんとうにその種の出版を扱えるのか。

まず先にANU出版会に当たってみることにした。彼らは書きあがった一部の原稿を見て、即逃げ出した。自分たちは論争的なものは手がけないのだという説明だ。
後でわかったことだが、彼らは私の原稿をANUの国際関係学部の私の“よき友人”たちに回したところ、たちまちこの“左翼的親中国作品”は学術出版としてふさわしくないと却下された由であった。

これは手痛い後退だった。だが同じころ、メルボルン大学出版会を取り仕切っているピーター・ライアンという少々正体のつかめぬ男からアプローチを受けていた。 
ライアンについては、彼の右派的な思考や過去にオーストラリアのスパイ組織にいろいろと関係していたことを知っていた。しかしこれらはいずれも、由緒正しい大学出版会の経営の仕事にはつながっていないだろう、と私は考えた。

だがそれは間違いだった。ライアンはメルボルン大学出版会が非常に強く中国関係の本を出版したがっていると、わざわざいっていた、そして私はもともと意図したことよりはるかに学術的なものに修正して協力する必要ありと感じた。

彼に検討してもらうおうと期待を込めて私は原稿を渡した。彼は数ヶ月もそれを暖めていた。その時私はすでに日本にいた。突然彼から手紙が届き、原稿は偏りすぎているので出版できない、とのことだった。

これはまたまた手ひどい後退だった。幸い私は、依然として出版に意欲を見せているオニールへ日本から連絡することができた。しかし日本にいながらこの本をもっと大衆的なものに書き直すことは不可能だった。メルボルン大学出版会から受けたショックから完全に立ち直ることはできなかったが、もしかしたら、これははじめからライアンが意図していたことだったかもしれない。

権力はまたしても、私を撃ち返して来た。

今や自分の国オーストラリアで遭遇した悪夢からを逃れる唯一の道は、日本だけだ、日本だけのはずだ。