ライフストーリー


四つの世界のはざまで― 中国、ロシア、日本、オーストラリア:
四つの仕事のはざまで― 外交官、エコノミスト、ジャーナリスト、日本研究者:
四つの言葉のはざまで― 英語、中国語、ロシア語、日本語 

まえがき・第1

まえがき

 これはひとりのオーストラリア少年の物語である。 経済学者コーリン・クラークを父として1936年英国に生まれ、まもなく第二次大戦下のクイーンズランド州へわたり、ブリスベーン近郊の小さな農場で育つ。
 
16歳でオックスフォード大学へ入学を認められ、そこでヨーロッパの魅力と英国階級社会の美しくない面を体験する。その後オーストラリア外務省に入り、中国語を学ぶために革命後の香港へ派遣され、さらにフルシチョフ自由化時代のロシア(ソ連)で、在モスクワ・オーストラリア大使館の一等書記官として仕事をする。
 
28歳のとき、ニューヨークにおける国連軍縮委員会のオーストラリア代表として指名されたものの、KGBによる監視、オーストラリア政府の狂った中国政策、ベトナム戦争に対するオーストラリアの犯罪的支援を身をもって体験したことから、人生には他にやるべきことがあるはずだと考えるに至る。そしてキャンベラの大学院で日本経済について学ぶための奨学金を得て、日本を訪れその自然の美しさ、人々の優しさ、そして社会の不思議さに目を開く。
 
キャンベラの大学院時代、まさにその種の活動を敵視する時代の風潮の中で、中国の外交政策を客観的に分析して強くベトナム戦争に反対しようと本の執筆に着手。その結果、オーストラリアの新聞の東京特派員として国を出ることになり、日本へ。そこでは日本経済の隆盛を目の当たりにし、日本語に磨きをかけ、やがてオーストラリアのピンポンチームを率いて、ついに中国へ行く機会をつかむ。
 
その後オーストラリア政府の政策顧問としてキャンベラで1年間を棒に振った後、東京のある大学に職を得る。そこで第二作となる、今度は日本のことを説明した本を執筆。その結果、その後25年間を知名度の高い講演者として、またメディア・コメンテーターとして、日本全国を飛び回る日々を送ることになる。その間に家族をつくり、数十におよぶ日本政府の政策委員会、審議会に招かれて参加、日本の一大学の学長に就任するに至る。
 
そこに至る道のりで、彼はKGBASIO (オーストラリアの秘密情報機関)のいかさまぶり、リュパート・マードックのメディアの欺瞞性、オーストラリア学者の官僚的不毛さ加減、オーストラリア政府の悪質な外交政策、オーストラリア労働党の愚かさ、日本政府の非論理的政策立案、日本の教育システムの非効率性、オーストラリアの経済的非合理性、オーストラリア独特のオズ・オッカー的偏狭さ、の数々に遭遇。
 
しかしその一方で、世界の主要な文明の三つ― 日本、中国、ロシア― を肌で体験することができた。これらの言語と人々を理解するというチャレンジ、また日本という驚くほどオープンでダイナミックな社会によって与えられた機会の数々は、さまざまなマイナス面を補って余りあるものだったと感じている。
 
そして今ついに、自分自身いちばん好きなことにいそしんでいる― モノをかくこと、農業のしごと、土地の開発、山登り、そしてラテンアメリカに新しいフロンティアを発見、またそれと同時に、東京の南にある房総半島の丘陵地帯にかなりの規模のコミュニティを育てながら、また北日本の秋田において新しい大学の基礎固めの一翼を担いながら。

第一章 生い立ち― オーストラリア、オクスフォード、キャンベラ

出生、子供時代と教育
 
出生証明書によると、私は1936年5月19日生まれ、またそれによると場所は英国ケンブリッジで、とある。なぜそこだったかといえば、経済学者である父コーリン・クラークが、ジョン・メイヤード・ケインズのアシスタントとしてその町で働いていたからである。わが誕生パーティーに来たケインズが私のふっくらしたピンク色の腕と髪の毛のない頭を見て、“子豚のようだ”といった、と聞かされている。それは人口に膾炙したケインズ語録の一つとはいえないにしても、少なくともこの私に向けられた唯一のことばである。
 
父はもともと化学を学んだ。その後統計学に転じ、経済の大きさはGNPと呼ばれるもので測ることができるというアイディアの開発に大きく貢献した。また彼は、経済は、第一次、第二次、第三次産業というカテゴリーに分類することができるというアイディアを打ち出した。
 
後にはさらに彼は、経済発展を測定するにはどうすればよいか、またヨーロッパ以外の社会で同様の発展を測定するにはどんなクライテリアが必要なのか、についてのコンセプトを開発し確立する。今ではこのようなことは当たり前になっているが、その当時は周囲の人々から、全く新しく革命的な概念といわれたものだ。彼の「経済発展の条件」という本は長い間、とくに日本では、教科書的扱いを受けた。日本での彼の名声は、後の私の仕事の上で大きな助けとなった。
 
実際いまでも、これらのパイオニア的業績のために彼はノーベル賞を受けるべきだったという声を耳にする。その一方、彼が後に厳格なカトリック主義から、右派の人口拡大論親派の考えを支持するに至ったため、ノーベル賞にはなじまないという意見もある。
 
彼は、当時の流行の考え方とは逆に、世界はこのような成長を遂げるに十分な食料と他の資源のポテンシャルを持っていると確信していた。彼のキャリアの多くは従来型の知恵に挑戦することから出発したものであり、彼の子孫の幾人かは同じ性質を受け継いでいるかもしれない。(彼の生涯、思想、仕事を真に見事にまとめた研究として、ジョージ・ピーターズによるクイーン・エリザベス・ハウスのワーキング・ペーパー・シリーズQEHWPS69がある)
 
後にかなり右寄りになったとはいえ、父コーリンと母マージョリー・タタソールは二人とも、若い時は左派としてのスタートだった。母は一時ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で学び、そこのファビアン・グループ設立に尽力した。そこで父と知りあったのだ。その頃の父は理想主義的左派といったおもむきだった: 1930年代のケンブリッジ時代には、非常に保守的な農村部のイーストアングリア選挙区で労働党から立候補したこともあったが、成功はしなかった。二人とも、右寄りになり強く反共的になったのは、後になってからのこと。カトリック信仰が一つの理由だ。だが他にも、LSEやファビアン内部の派閥争いの中で、いくつもの閉鎖的な、がっちり組織された親共産主義的派閥と戦わねばならなかった苦い経験のことを、私は二人からよく語り聞かされた。

オーストラリア・コネクション

 父コーリンは、最初は西オーストラリアから、その後はメルボルン大学から客員講師の招請を受けたため、家族共々1938年オーストラリアへ赴く。― この国への関心は古くからで、というのは彼の父(私の祖父)がオーストラリアの羊毛を日本の瀬戸内海へ輸出し(日本の繊維製品と交換して)何度かの蓄財のうちの一部はそこから得たものだったという経緯があったためだ。また彼自身のもう一つの関心事として、労働党政府を作り進歩的な福祉・賃金立法政策を立てるというオーストラリアのパイオニア的役割に興味があったからだ。
 
ヨーロッパが戦争中だったため、不本意ながらオーストラリアに留まることに決めた父は、クイーンズランド州政府のハンロン政権(労働党)からエコノミック・アドバイザーの仕事を依頼されて、1940年に一家はブリスベーンへ移った。父は後に右寄りになったときでさえ、この政権のゆるぎない一貫性とセンスのよさを高く評価していた。
 
皮肉なことに、ヨーロッパでの戦争を避けるためにオーストラリアに留まることを選んだ父だったが、まもなくこの地で日本との戦争の真っ只中に、そしてよりによって日本から爆撃された幾つかの都市のひとつに身をおくことになった。
 
灯火管制と配給制以外の戦時中の私の記憶は、トゥウォングの濁った川のほとりに立つ、広いベランダと粗鋼製の手すりのある高床式の典型的なクイーンズランド・スタイルの我が家の、その広い庭で、長い夏の日を遊んだことがよく思い出される。もう一つの記憶は、父がカトリックに改宗すると決めた後、(父は近くの教区のフィッツジェラルドという知的なジェスイットの牧師から大きな影響を受けた)、両親が長々しい議論をしていたこと。
 
母もやがてはカトリックに改宗したが、父ほど厳格な信者になることはなかった。ずっと後になって私は父に、インテリである父がなぜそれほど深く宗教を信じるのかと尋ねたことがあった。父は深い確信をこめて“単なる信仰の問題だ。”と答えた。
 
学校時代

 私の教育の始まりは、ブリスベーン市の地元の小学校。その後カトリックの中学校へ― 初めは南ブリスベーンのセントローレンス校、のちにはグレゴリー・テラスのセントジョセフス校だった。その頃には父は州の大蔵省事務次官になっていた。この頃のことで強く記憶に残っていることの一つは、セントローレンス校から自転車かバスで帰宅途中、ヴィクトリア橋の向こう側にある大蔵省の飾りのついた建物の中の黴臭い父の事務所を訪れたこと。そんな時父は、クイーンズランドの将来にとって農業がいかに大事か真剣に話してくれた。
 
戦時中の物不足を体験した父は、とくに食料と原材料供給の必要について、非常に敏感になっていた。後に彼は、著書の中で、貿易交易条件は工業国を見限り、たとえばオーストラリアのような資源豊富な国へ有利に移動する、といささか行き過ぎの感ある予告をしていた。
 
けれども彼は、人に説いた持論を自らも実践した。1947年ブリスベーン市はずれのブリスベーン川のほとりのケンモアに、広さ10エーカーの、苦労の割には報われない酪農養豚農場を5000ポンドで購入した。今日ではそれは500万ドル以上の値打ちがある。
 
ケンモアはいまでは中産階級の郊外住宅地として人気上昇中のところだ。だがあの頃は、まだ寂れた酪農場の寄せ集まりに過ぎなかった。
 
そのケンモア農場はわれわれの生活を劇的に一変させた。私はそのときまだ10歳になったばかりだったが、すでに4人の弟がいた。長男として、父が首都キャンベラや外国の会議などに出張で不在がちだったため、農場の重労働は私のか細い未熟な肩に重くのしかかってきた。
 
毎朝弟たちを誰か彼か起して手伝わせ、6頭もの牛の乳を搾り、何十頭もの豚に餌をやった。学校は何マイルも離れたブリスベーン市の中心にあり、ケンモアのバス停までの数マイルも歩くか自転車で行かなければならなかった。― そのバス停は、当時は少しの放牧場と中国人経営の小さな雑貨屋が一軒あるきりだった(今では大きなショッピングセンターとして賑わっている。)
 
週末はケンモア丘陵地を馬であちこち彷徨ったり、キャンプの旅をしたり、家の下方にあるブリスベーン川の濁った水に棹差し筏遊びをしたり、また農作物を育てようとあまり実りのない努力もした。
 
その頃には父はB.A. サンタマリアという、熱烈に反共主義的なメルボルン・カトリックに属する知識人で、後に民主労働党(DLP)を創設することになる人物と、親密な関係を築いていた。思うに、サンタマリアの描いた有名な、いわゆるオーストラリア・ビジョン―― 誰もが10エーカーの土地と1匹の豚の持ち主になれるという―― が、父のあのケンモア農場熱から何らかの影響を受けた結果ではないかと思っている。
 
母はといえば、まだまだ弟を生み続けていた。やがて弟は7人、妹1人(これは英国生まれ)という結果に。大家族のメリット―― これもまたサンタマリアのスローガンだった。
 
サンタマリアのDLPがオーストラリア政治の健全な発展に対して有害だったことは、今ではよく記録に残っている。私は後に、外交官としてまたベトナム戦争反対の行動者として、反共主義者でひどい悪意に満ちたサンタマリアがオーストラリア外交政策に行使した影響力に、とりわけオーストラリア方向に向けられた中国からの赤い矢を描いた宣伝やポスターの効果に、真っ向からぶつかることになる。
 
だがあの無邪気な子供時代には、サンタマリアは単に、ケンモアに時々現れるやさしい、小柄で色黒のおじさんというだけだった。
 
父は1952年オクスフォード大学の農業経済研究所の所長の仕事を引き受けた。その頃にはクイーンズランドを治めていたのは腐敗の噂も絶えないゲアー政権であり、父は、当時オーストラリア問題に非常に深く関わっていたとは云いながら、そこから抜け出すことによろこびもあったと思う。
 
ケンモア農場は管理人に引渡し、一家は、私を除いて、英国へ旅立った。私は、グレゴリー・テラス高校での過程がまだ数か月残っていたため、ブリスベーンで家族の友人の家に滞在することになった。
 
私はその時わずか16歳だった。二度飛び級をした。そのわけは主に、転校する際に本来行くべきクラスがすでに一杯だったため、適当に一つ上のクラスに入れられたからだったらしい。
 
ずっと後になっても、日本では大学入学資格は18歳ということが固く守られていて(この点に関して私自身や他の数名が改革を実現させたが)私がそんなに若くて高校を卒業したので天才か何かのように見られることになった。その時々に弁解を続けてはいるが、フィクションは続いている。
 
私は高校を卒業したら英国へ行き、家族と合流しそこの大学へ入るべきことになっていた。だが北半球南半球の時間差のせいで、それまでにまだ10ヵ月の余裕期間があった。そこで父は、彼の親しい友人で政治的同志でもあった金持ちの牧羊主チャーリー・ラッセルが南西クイーンズランドのカナマラに持っていた羊牧場で、私が週2ポンドで数ヵ月ジャッカルーとして働くように手配してくれた。その牧場はクローバー・ダウンズと呼ばれていたが、不似合いといえばこれほど不似合いな名前もない、そこは半砂漠地帯だった。
 
一日12時間、約3ヵ月間真夏の砂埃の中で来る日も来る日も、体重50キロの羊何十頭もの群を集め(ドラフティング)処理する(マーキング)仕事、そして週末には120マイル運転して田舎のパブで粗野な荒くれの牧羊労働者たちとしたたか飲んで騒ぐという暮らしは、わが人生の中で、最も人間形成的な体験の一つとなった。

オクスフォードへ

 クローバー・ダウンズを後にして、私は船でヨーロッパへと旅立った。1953年4月マルセイユで家族と合流、寒い数週間をキャラバンカーでフランスの田舎を回り、最後はパリでエミーのアパートに滞在した。エミーは、生まれと教育は英国だが、フランスに帰化した私の叔母で、夫とともにフランスの対ナチ・レジスタンスで活動した。彼ら二人は、ナチスの拷問を受けた他のレジスタンス・メンバーの密告によって逮捕された。夫は処刑された。エミーはナチスの強制収容所で3年間受難の時を過ごしたが、やがてフランスでレジスタンスのヒロインとして地位を確立した後、サー・チャールズ・ヘンダーソン(英国人の大物有名人)とパリで結婚。オーストラリアの原野から出てきたばかりの若者にとって、エミーの家で短期間に吸収することは盛りだくさんだった。
 
やがてオクスフォードに到着し、自分の将来について真剣に考え始めなければならなかった。ブリスベーンの学校時代は、クイーンズランド大学に行って医学、工学あるいは理想的には獣医学(私は常々文科系よりも理数科系が好きだったし農場の体験で動物に興味をもっていた)を学ぼうと考えていた。
 
ところがオクスフォードは、その当時は人文系に重点が置かれていた。外の社会に対する唯一の妥協として、現実的な問題と関連した弱い工学部があるだけだった。オクスフォードから80キロ離れたレディングの町には獣医学があった。しかし私のような若者が通うには遠すぎるというのが両親の意見だった。
 
そのとき父は突然、私は就職すべきだと決めた。(これは私の年令のせいなのか、それとも大学のカレッジに入る能力についてなのか、新たに湧いてきた疑問である)父は自分の著作物をよく扱っていたある大手カトリック出版社タブロットの編集長に、私を紹介した。
 
幸いなことに、私は就職希望の手紙の中で編集長の名前バーンズ(Byrnes、それともBurnsか)のスペルを間違えてしまった。丁寧な断り状の中で編集長は、正しいスペルを書く能力は出版業務の前提条件であると書いてきた。
 
そこで父は次に、サンドハーストを提案してきた。その理由は主に、私がブリスベーンでスクール・カデット・オフィサーとして30人単位の軍団チーム(プラトゥーン)で優秀賞を獲得していたかららしい。(なぜ私が賞を取ったか父は知らない― 朝の教練時間に私は密かにチームのテントへ行きベッドが整頓されているか確認していたのだ。ベッドの整頓は学生プラトゥーンの成績判定のカギだった。)だがサンドハーストのアイディアも、何らかの理由でお流れになった。

 後になって、このときの行き違いをとくに有難く思うことになる。ベトナム戦争時代の経験が私を断固とした反戦主義者に作り上げた。
 
結局のところ、それよりよいアイディアがなかったため、父のいるオクスフォード大学のカレッジ、ブレズノーズを試してみることにした。これは父と私二人が考えていたよりは簡単に運んだ。一つには父のコネがあったからだが、もう一つはオクスフォード大学は旧英領植民地圏からの応募を優遇する割当制があったのだ。
 
短い面接とフランス語の読解の簡単なテストがあって、合格となった。私はまだ16歳、これから何を勉強したいのか決断しなければならなかった。
 
私の最初の選択は経済学だった。父がやっていたからというのが大きな理由だが、他にも、高校で好きだった数学理科系に少しは近いという理由もあった。だが当時の経済学は、当時オクスフォードで非常に人気があったPPE(政治学・哲学・経済学3科目)コースで政治学、哲学と連結していた。そして父は、経済学の抽象的理論を掴みとるために自分で収入を稼ぎもしなければ使うこともしない連中に対し、強くそして、今でこそわかるが、正しい意見をもっていた。
 
彼は私に、入門的教養的課程として適切だと、地理学を勧めた。経済学をやりたいなら、その後でやればよいとの言葉。私は同意するほかにあまり選択肢はなかった。
 
続く3年間は気楽に過ぎた。― ビールとサイダー・パーティー、イシス川(古代エジプトの女神の名をとった)の上で流れに棹差す川遊び、スポーツ(主にボート漕ぎ、ラクロスとスカッシュを少々たしなみ)、毎週のチュートリアルに向けたにわか勉強。
 
当時オクスフォード大学新入生全員に一年間のカレッジ寄宿生活が義務付けられていたが、それはオクスフォードの学問主義に対する尊敬を期待されたほどには私に植え付けはしなかった。私の目にはそれはむしろ、ポートワインと階級社会スノビズムに浸るための口実に思えた。
 
その点ボート漕ぎは、いく分性格形成に関わりがあった。私は最後は、第2ブレズノーズ四旬節競艇のストロークとして、ワドハムの追撃を受けながらの6日間に及ぶ苦闘に耐えて終わることになった。その結果、耐久ということについて学んだと思う。
 
われらがエイトのコックスは“パッタ…何とか”という名のチビのタイ人だった。われわれはみな彼を短くパットと呼んでいた。何年もの後、東京でアジアの将来とか何とかに関する国際会議があった。私のとなりに ”パッタ…何とか“いう非常に太ったタイの教授が座っていた。それがやっぱり紛れもなくパットだった。

ヨーロッパへ

 続く2年間は、家族とともに、セントラル・オクスフォード(ケーブル通り)のテラスハウス、4階建ての赤レンガの家で暮らした。家の地下室を借りていたのがダン・クーパーという上級生で、彼はスペイン在住の英国詩人で作家のロバート・グレーブスの甥だった。オクスフォードの学生としては珍しく、ダンは結婚していた。後に彼は、スペインのコスタ・ブラヴァの海岸やバーで白い肌と金を見せびらかしたがっている英国人のために、最初の大集団ツアーを組織した男だ。
 
私はダンから強い影響を受けた。彼の生き様は激しく、ヨーロッパを広く旅して回っていた。彼の弟(ロジャーは当時はペルシャ語を勉強しており、ずっと後には英国のスパイとしてテヘランの刑務所に入れられた。ダンとロジャーのおかげで、私は、英植民地出身の初心な17歳の少年が通常頭に描くよりは、世界はもっともっとコスモポリタンであることを発見した。
 ダンのロバート・グレーブスの関係も手伝って、われわれ一家は1954年はじめマジョルカ島で休暇をすごすことにした。ドライブの大半は私が担当した。暮れ方に英国や北フランスの寒い灰色の冬の天気に別れを告げ、夜中かかってローヌ渓谷を下り、翌日の朝早く南フランスに到着した。そこから早春の光り輝く温暖なラングドックの朝の中を数時間走った後、スペイン国境を越える頃には、私はヨーロッパの多彩ぶりと魅力を実感し始めていた。

マジョルカ島の貸し別荘暮らしは、毎日暖かい太陽の光を受け、地元の食事とワインを満喫して、私はまた改めて、寒々とした、食事もでんぷん質の多いおいしいとはいえない英国からも、また食べ物に関して“何でもあり”的なおおざっぱ態度のオーストラリアからも、いかに遠く離れてきたか実感した。(クローバー・ダウンズでは、羊のマーキングシーズンには、焚き火の上に置いた鉄板の上で焼いた羊の睾丸がランチのこともしばしばだった。)私は、世の中にはもっと違った楽しむべきライフスタイルがあることを自覚し始めた。― 典型的な頭の狭いアングロサクソンにとっては、これは大きな発見だった。
 
ダンは地下室で、よくパーティーをやっていたが、そこで知り合ったのが、スシャ―ル・チョコレート王国の共同所有者であるフランス系スイス人の富豪の家の魅力的な娘ディアンだった。ダンのパーティーに来ていた他のヨーロッパ女性の幾人かと同様に、彼女は英語に磨きをかけるためにオクスフォードに来ていた。私より少しだけ年上。その後の2年間われわれは頻繁に会っていた。当時のオクスフォードでは、勉強だけでなく休暇が一大イベントだった。私は休暇にはたいてい、ブレズノーズ・カレッジの友人と家族の車で、あるいは3ヶ国語に通じたDとヨーロッパ中をヒッチハイクで旅行していた。
 
その間に、私は語学学習本“ティーチ・ユアセルフ”ブック・シリーズのとりこになった。それはさまざまなヨーロッパ語への手軽な入門書として人気があった。一冊の小さな本が全く新しい外国への扉を開いてくれるという驚異が心を捉え、それは今に至るまで続いている。
 
私のヨーロッパ冒険のクライマックスは、オクスフォード卒業試験直後の1956年夏ダンがわれわれ数人のために組織したユーゴスラビア3ヶ月滞在というユニーク極まりない旅だった。当時まだ非常に共産主義的だったユーゴスラビアは、折りしも西側世界へ観光の門戸を開き始めたばかりだった。
 
ユーゴスラビアの通貨ディナールは為替レートがひどく過剰に評価されていた。イタリアのトリエステでその通貨を安く買って、密かに外へ持ち出して、アドリア海リゾートの各地で西側から来たツーリストに公定レートに近い値で売れば、大金を稼ぐことができるのを発見した。
 
それは危険なゲームだった。そしてわれわれの後で、それと同じ綱渡りをやろうとした人間が3年間ユーゴスラビアの刑務所に入れられたと、後で聞いた。だがわれわれは若く、向こう見ずだった。そのようなことはどこ吹く風だった。アドリア海岸沿いの以前イタリア人所有だったあるホテルは、よい宿で値段も安かった。― ドルに換算して1日1ドルだった。食事もワインも上々だった。われわれは王侯貴族のような暮しだった。私はディアンと一緒だった。通貨売買のためトリエステへ出入りする中で、まだスポイルされていないスロベニアやクロアチアの田舎を、旅なれたわがなじみのモーターバイクで、持ち出したディナールを入れたプラスチックバッグをガソリンタンクに隠して、旅して回った。ダイアンは汽車で一人旅をしていたとき、危うく自分に色目を使った検札官に捕まりそうになった。持ち出した通貨を体に身に付けて隠していたのだ。船がアドリア海沿岸を下る旅で、ダブロフニクという古い港町で一緒に過ごした週末は最高だった。われわれはまた同時に、大金も稼いだ。― わが分け前は1000ポンド、当時にしてはかなりの財産だった。

今回のユーゴではドイツ、イタリア、スペイン語のときとちがい、「ティーチ・ユアセルフ・シリーズ」教本の効果はそれほどでもなかった。だが、豊かなくらしと旅を続ける中で、私はスラブ文化とその人々に対して強い興味を植え付けられた。その興味は長く薄れることなく、およそ予想外の形で私の後のキャリアに影響を与えることになった。
 
しかしながら、秋の到来とともに観光客は姿を消した。われわれは再び北へ戻るときが来た。― Dははるか遠いオーストリアの山小屋でチューターとなるために、私は英国へ、そして新しい仕事へ、と。

オーストラリア帰還

 大学を終えた時点では、就職のことはまだかなり漠然としたものだった。大学に残って経済学の勉強を続けたいとは思わないと決めた: 何よりもまず私は、英国の階級社会や英国の気候があまり魅力的なものではないと感じていた。だが、地理学の学位と副専攻の文化人類学、地質学、測量学の資格をもってして就職の機会はあまり多いものではない。 測量学のコースの関係では二つの就職の口がかかったのではあるが。―― 一つは中東の空中測量の仕事、もうひとつはフォークランド諸島の測量で、どちらも年収2000スターリングポンドのオファーだった。
 
私はオーストラリアに帰ってもう少しましな仕事を探そうと決心した。
 
でも、何があるか?オーストラリアにはコネもなく親戚もいない。メルボルン在住の非常に遠い女性の従妹が3人いるだけだ。ロンドンのオーストラリア・ハウスで調べたところ、英国にいながら応募し就職が決められるポストが二つあることが分かった。
 
一つはメルボルン電鉄会社。もう一つはオーストラリア外務省だった。
 
この選択は、見かけほど簡単ではなかった。語学や旅行は好きだったが、外交問題にはあまり関心がなかった。そして何よりもクイーンズランド牧場育ちの体験から、オフィスワークに対して強い違和感があった。― その違和感は今に至るまで続いている。
 
その当時ロンドンにいたオーストラリアのシニア外交官2名―― キース・ウォーラーとミック・シャン―― と短いインタビューをして、内定済の候補者として採用された。(彼らは私のオクスフォード卒という肩書きにもっぱら注目していたようだ)
 
そして、ある寒い、小雨の降る晩秋のオクスフォードの朝、私はモーターバイクでオクスフォードを出発しロンドンへ向かった、一人10ポンドのメルボルン行き移民船に乗るために。われわれは埠頭でバイクを下りて、それを木枠に詰め、まさに出航の1時間前バイクとともに船に乗り込むことができた。私にとって、移民の人々も同じだったが、イギリスとは非常に異質な国で、非常に異質な新しい生活への始まりとなるものだった。
 
メルボルンからモーターバイクでキャンベラへ向かった。初夏だった。その頃のヒューム・ハイウェーはまだほんの一部アスファルト舗装されているだけだった。暑い、砂塵の立つ空漠とした田舎を2日間かかっての旅だった。一晩、道端のパブに泊まった。取り澄ました、人口過密の、太陽に恵み薄い英国からやって来た私にとって、それはオーストラリアの現実へ手荒く投げ込まれたオーストラリアへの回帰だった。
 
キャンベラへ

 キャンベラも同じだった。その頃のキャンベラは、牧羊農場、ポツンポツンと散らばった記念碑的建物、そして3万人の人口を持つ町だった。外務省の新しいボスから、リードハウスという名の宿舎に住むことができると告げられた。その名前から、芝生に囲まれ、どこからかテニスボールの弾む音が聞こえてくるような、どっしりとした豪邸を思い浮かべた。
 
ところが実際のリード・ハウスは違った。― キャンベラのいわゆる“シビック・センター(市の中心)”なるところのはずれにある、季節労働者用に建てられた仮設小屋の一群だ。のちに1957年外務省入省組の他の7人とともに、当時キャンベラのはずれに近かったノースボルン・アベニューにあった瀟洒な若手官僚向けの中産階級的なホステル、ハヴロック・ハウスへ移るのだが、それまでの数ヶ月間はその仮設小屋が住まいとなった。
 
はじめの1年間の大半は、あまり意味のない外務省の研修旅行、省内の各部署業務体験、絶望的に競争の激しい(男対女の比率が5対1という)宿舎のパーティー などに過ぎていった。まだ旧式の時代のあの頃は、女性のキャリア公務員採用はごくわずかで、われわれは秘書たちのご機嫌を勝ちとるために競争しなければならなかった。私は無性にDが恋しかった。
 
幸いなことに、ほかに地元のキャンベラ・ユニバーシティ・カレッジ(CUC)でいくつかの講義をとる機会もあった。オクスフォード大学時代に父の手ほどきで経済学を体験したとの主張が入れられて、私は若くて精力的な教授ハインツ・アーントが担任を務める経済学の2年生のクラスに入ることができた。
 
当時アーントは、筋金入りの左翼的な思想の持ち主として名をはせていた。私自身はまだまだ保守的だった。とはいえ、われわれ二人はいい関係を保った。
 
その後数年経つと、事情は逆転した。彼は多くの外交問題、とくにインドネシアについて、非常に右よりになった。けれども、われわれのいい関係は続いた。
 
アーントはオーストラリアには珍しい、またさらにいえばオーストラリア以外のほとんどのアングロサクソン社会にも、めずらしい真に知性的な人間で、包容力もあり、幅広い関心の持ち主だった。アーントにとっては、意見のちがいは、無視や封じ込めするよりも歓迎して議論すべきことで、これはキャンベラの便秘したような知的風土の中にあって、希少価値を持つものだった。しかしそうは云うものの、ハインツはオーストラリア人ではなかった。彼はドイツのユダヤ人で、戦時中にオーストラリアへ強制送還されてきた人間だった。
 
CUCでは地元の政治学者フィン・クリスプが担当するオーストラリア政治学の講義もあった。ある日彼は、ズバリといった― 知性のある人間なら必ずやオーストラリアの進歩的
左翼の政治に参加せずにはいられないはずだ。それを聞いてわれわれ保守的な聴衆は全員ショックを受けたことを、はっきり記憶している。

彼は何十年も後にベトナム戦争の時代になって、この戦争の狂気を指摘しようとする全ての人々に対しいささかの妥協も見せないコチコチの反共主義者として、頭角を現した。私はそれをフリップ・フロップ(とんぼ返り:転向)効果とよんだ。― つまり、オーストラリアのインテリは一貫性を保つことができない。ハインツといえども、この次元では弱い。

アーントの講義で私は開発途上の経済にたしかな興味をもった。数年後彼は、後述するように、私のキャリアに決定的な援助の手を差し伸べてくれた。

皮肉な話だが、彼は私の父に対しては、これと正反対のことをした。彼はコーリンの讃美者だと主張していた。たしかに彼は父の全仕事に就いてよく知っていた。そして何十年もの後、彼は経済理論とくに経済開発理論における父の貢献を指摘した優れた論文を書いている。

とはいえ、1960年代初めには、彼は私の父がCUCで統計学教授という地味なポストに就くことを阻止しようとして介入した。(そのポストは、あるアル中のキャンベラ官僚のところへ回り、まもなく彼は飲酒のため死亡した)
 
これは、是が非でもキャンベラにいて連邦政府経済政策に再び携わるための基盤を持とうとしていた父にとって、まずい打撃だった。だが当時のキャンベラの閉鎖的で小さいアカデミズム世界においては、彼が世界的に著名なエコノミストだという事実も関係ない。父は、政治的に受容できないほどの保守派であり、なお且つアカデミズムの世界ではライバルというわけだ。

父が最後に行き着いたのは、私の目にはかなり不満だったと思うが、メルボルンのモナシュ大学と、その後のクイーンズランド大学だった。クインーズランド大学では彼の過去の功績が多少は認められた。

キャンベラにいる間にわたしは他に、1年間のロシア語コースをとった。理由はいくつかある―― ユーゴスラビアの経験、ソビエトの宇宙計画の成功、そして私の言語全般に対する興味。

 けれども私は何よりも、ヨーロッパに戻りたかった。そしてDに再会したかった。彼女はドイツのどこかで勉強中だった。ペトロフのスパイスキャンダルの後3年間閉鎖されていたモスクワのオーストラリア大使館が再開の見込みがあった。ロシア語を話す人間が必要になるだろう。希望的観測で、ロシア語を少し勉強しておけば、モスクワに派遣される可能性があるのではないか。そうなればドイツへ行ける。
 
その計画は完全な失敗に終わった。大使館は再開されなかった。Dはミュンヘン近郊の森で秘密ロケット開発に関わっていたドイツ人科学者と結婚してしまった。そして私は中国へ行くことになってしまった。
 
中国へ

 私と中国との関わりについては、少し説明する必要がある。オーストラリアと北京との外交関係は1949年の共産党革命以来、断絶していた。したがって外務省の中国語研修も、断絶状態だった。ところが1958年キャンベラは、中国と中国語をまた再び重要視すべきときが来たと決断した。
 
その年の終わり、中国語を学びたい希望者を募る回覧がデスクの上に回ってきた。選ばれたものは1年間のインテンシブコースをポイントクック軍隊の語学学校で勉強したあと、その後の2年間は香港へ赴任するという約束になっていた。
 
私の興味は中くらいのものだった。その頃の同僚の大半の連中と同じで、私はヨーロッパとアメリカを国際問題の中心で、いちばんより抜きの人間が赴任する地域と見ていた。アジアに関わるということは、世界の将来にとってあまり重要ではない事柄についての狭いスペシャリストとみなされることへ、自分自身に枠をはめることでもあった。だがキャンベラでの日々は、つまらなくなり始めていた。1957年入省の同期生は私より年上で、かなりの年上のものもいて、彼らの多くはすでに赴任していた。私は経済援助の部署で取り残されイライラ感を募らせつつ、腐敗が原因となってか、あるいは反政府活動家に爆撃されるかで、いずれにしろ失敗に終わるに決まっているようなアジア・プロジェクトの資金を手当てする仕事に関わっていた。中国語を学ぶために派遣されるということは、少なくともキャンベラから外に出られる。
 
そこで私は回覧文書に自分の名前を書いた。選択肢を残して、おくためというのが一番の理由だった。(選択肢を残しておくということは、それ以後キャリアの多くの場面で私の指針となった。)自分が本当に中国語を学びたいかどうかは後で決めればよい。
 
だが選択肢は開けなかった。その頃省に勤めていた数百名の外交官の中で、名前を登録したのは私ひとりだった。つまり、私に決まり、である。 その2ヵ月後、私はまた荷物をまとめて、今度はメルボルンの南の、ポートフィリップ湾に面した殺風景な風吹きさらしのポイントクック空軍基地の、安普請のバラック小屋に住むために出発した。それがほぼ1年間私の住まいとなるところだった。
 
1日8時間週5日間、ポイントクックの中国語コースは効率のよい語学教育として表彰されることはあり得ないだろう。来る日も来る日も、念仏のように文章パターンをどもりながら繰り返す 、文法を暗記する、基本的な表意文字を覚えることに過ぎていった。夜は将校たちサロンでビール飲み、ビリヤードゲーム、またほんの10年少し前の北朝鮮上空への空爆出動の自慢話を聞いて過ごした。
 
“われわれは動くものはみな標的に、機銃掃射した。牛まで撃った。牛がなくなれば、稲叢が標的だった。”というセリフが、私の記憶装置に焼きついている。後で朝鮮へ行ったとき、このような自慢話の恐ろしさを実感したのだった。
 
研修の同僚たちはごく普通の軍人タイプの連中だった。彼らはこれまでにどんな簡単な外国語も学んだ経験が全然あるいはほとんどなく、ましてや中国語のような言語はいうまでもない。彼等が将来のキャリアの中でこの言語とどんな付合いをしたのか、神のみぞ知る、だ。おそらくは、それ以後の中国との戦争の中で、最後は爪はがし人として終わったのではあるまいか。それができなかったならば、もう一つ別な言語を学び直して、他のアジアの戦争で指の爪をむく仕事に従事したのだろう。

 私は希望して、彼らの数ヶ月前に最終試験を受けることを許された。そしてキャンベラの比較的には文明的な社会に戻った。外務省の東アジア課で短期間働いた後、香港へ向けて、シンガポール、マラヤ、タイ、カンボジア、南ベトナムを経由して、出発した。

香港へ

赴任の途上で、私はアジアの現実について若干の発見をした。シンガポールでは、地域住民のむさくるしさと貧困が、贅沢な庭付きマンションに住む気取った元植民地主義者たちの足元までひたひたと押し寄せているのを、この目で見た。そこに住む英国人はそこに根を下ろして社会と経済を牛耳っていた。彼らの唯一の目的は極東に大掛かりな海運基地を持つことだったが、それはいずれにしろまもなく放棄せざるを得ないことになった。
 
後に、シンガポールの人々が自分たちの経済と一人当たりGNPを英国よりはるかに高いレベルにまで押し上げたとき、私が思い出したのは、これらの政治家のお偉方がその当時、現地の住民たちは自身の問題をうまく運営していけないのだからわれわれがここに留まらなければならない、―と主張していたことであった。

 シンガポールにいたオーストラリア人も同じように、高慢な図式の一端を担っていた。
リー・クワンユーという一人の頭のいい進歩的な中国人が激烈な戦いを勝ち抜いて、前英領植民地の首相に当選した。ところが新生国シンガポールへキャンベラから派遣された代表部のトップだった小太りのデビッド・マクニコル―― 後にオーストラリアの対中国強硬政策の主導権を握ることになる人物―― は、オーストラリアはリーとのいかなる接触も拒否すべきだ、と言明していた。
 
なぜか? それはリーが選挙キャンペーン中、大衆にアピールするために抜本的な改革を実施することを約束し、また反植民地主義的レトリックを用いていたことによる。リーは危険な隠れ共産主義者と見られていたのだ。彼がシンガポールを共産主義から回避することができる英知を持つ行動派政治家の一人だという考えは、彼ら保守派の石頭には夢にも浮かばなかった。これは、当時のアジアにおける西側政策の盲目的愚かさ加減を、私が最初に実感した出来事だった。

シンガポールから鉄道で北へ向かう。マニラを通ってタイへ、そしてそこからカンボジア(アンコールワット)へ向かう。そこには、私と同じ三等書記官で、後にインドシナのアカデミック専門家となったミルトン・オズボーンが居り、彼と奥さんが親切にも私を招待してくれたのだ。
 
プノンペンの後はサイゴンへ、飛行機よりもバスで行こうと思い定めた。前もって聞かされていたのは、これから通る地域はときたまゲリラの攻撃があるところだが、旅行はほぼ安全だろうということだった。実際は、私の乗ったバスがこのルートを通る最後のバスになった。
 
われらが西側のエキスパートによると、ベトコン・ゲリラは辺鄙な山岳地帯に追い込まれている一握りの山賊にすぎないということになっていたにもかかわらず、実際は、すでに1959年頃からメコンデルタの大部分はベトコンのゲリラに支配されていた。
 
フランスの影響がいまだ濃いサイゴンで1日過ごした後、香港へ向けて短い空の旅をした。香港での初日に、スターフェリーの波止場で岸壁に寄せる波の中に死体が一体浮かんでゆれているそばを、人々は何事もない様子で行き過ぎていた。ようこそ中国へ。1952年12月のことだった。