劉暁波と天安門の非虐殺

中国政府は自らの利益に反する行動を取っている。中国が1989年の天安門における学生の抗議に加わった活動家を執念深く追い続けている様子、特に先ごろ亡くなった人権活動家の劉暁波氏の迫害により、国際社会、特に西側における印象を大きく損なう危険性がある。なぜ中国はこのような行動をとるのか?

念深く追っている様子あ見え、事実、西側と中国では、19895-6月の出来事に関して大きく異なる見解を持っている。西側においては、それは「天安門広場大虐殺」と呼ばれてきたが、今は無辜の活動家の弾圧と説明されている。しかし、改革を要求する学生たちに広く象徴的な天安門広場を約1ヶ月にわたって占拠することを許した改革指導者の小平によって率いられた中国政権は、突如として学生に対して虐殺や暴力的弾圧に走るだろうか。

実際、「天安門」は2つあった。一つは、天安門広場における学生の抗議活動であり、これは政権にとって恥ずべきことだったが、脅威にはなりえなかった。政権の中の一部はこれに共感さえした。中国共産党総書記だった趙紫陽は学生たちと交渉しようとさえした。広場からの学生の最終的な退去は平和裡に行われた。学生活動家がたどった命運は、タイ(1976, 100人以上が死亡)やメキシコ (1968, 300-400人が死亡)など他の多くの非民主国家と同じだっただろうか?

もう一方のはるかに暴力的な「天安門」は全く違った事件だった。それは怒った民衆による命がけの火炎瓶を使った攻撃で、天安門広場に集まった学生たちを退去させるために送られた政府の兵士たちを乗せた車両を標的としたものだった。すると、その中の火炎瓶が当たった何人かの兵士たちが反撃のためにその怒った民衆たちや彼らを支持した学生たちに食ってかかった。どういうわけか、私たち怠惰で頑迷な西側メディア(トランプ大統領は正しい)の目には、広場の外での怒った民衆や学生たちに対するそのような反撃は、広場内での、学生にたちに対する残忍な攻撃になってしまった。スペインのテレビクルーをはじめ広場内を目撃した人たちはこのような暴力行為はなかったと証言しているにもかかわらず。この不条理の一部始終はコロンビアジャーナリズム研究所のジェイ・ウイリアムズによるリポートで明らかにされている。彼は目撃者だ。「天安門の神話—受動的新聞の代償」(インターネットから閲覧可能。当時の在北京アメリカ大使館による客観的リポート付)

皮肉なことに、もし中国政権がこの広場外での暴力沙汰の責任を誰かに押し付けたければ、自らを責めることから始めるべきだ。中国はそれより前の30年間のほとんどの期間において、国民を不当に扱ってきた。1959-62年の毛沢東による大躍進政策の結果として数百万人が餓死し、1966-76年の文化大革命の残虐さへとつながり、同僚同士、学生同士が、辛く意味のないイデオロギー闘争をした。その後の国内の雰囲気は、私も1971-73年の訪問で見たところ、劣悪だった。

毛の死と彼の下級官吏、かの悪名高き4人の悪党の失脚により、緩やかに平常に戻った。これは革命家小平と彼の後継者で中国を世界に向けた解放へと導いたピンポン外交を1971年に始めた周恩来首相の貢献によるところが大きい。しかし改善の歩みは遅かった。1989年になっても中国国内の雰囲気は未だ地獄絵のようだった。天安門広場周辺の道路では学生による抗議の間、反体制派の群衆が不気味に集まってきていた。

と結局はその群集を恐れて、しかし表向きは衛生上の理由から、当時の中国政権は広場から学生を排除することを決めた。最初は地下鉄で非武装部隊を送り込もうとした。しかし彼らは簡単に足止めをされてしまい、無視されてしまった。そこで武装部隊がバスやトラックで送り込まれた。待っていた反体制派の群集は軍隊の車両に向かって火炎瓶を雨のように降らせて爆発させた。何十か、何百人の兵士たちが重症、または焼死した。陸橋の下に焼け焦げた死体が積み上げられた(ある西側のニュース通信社はそれらの写真はあまりにも残忍だとして出版を拒んだが、ほかでも見られるものだ)。

西側ではこの件についてわずかしか報じられていない。そのかわり、そのニュース見出しは香港の主要な英字新聞であるサウスチャイナモーニングポストに載った一次情報とされるものから盗用され、そこには政府軍が広場を襲撃し、何百人もの学生たちをマシンガンで掃討したと書かれていた。この著者は見つからなかったのだが、その理由は、彼は存在していなかったからである可能性が高い。そのストーリーは、長く香港で活動している英国の諜報機関によって植えつけられたものであることにほぼ間違いない。しかし、世界のマスコミの暴走は止められなかった。特にニューヨークタイムズはいわゆる「天安門大虐殺」の話を世界中にばらまいたのだ。

このことでさらに馬鹿げた状況を生んだ。西側メディアは兵士らに対する火炎瓶攻撃は無視し続け、一方で焼け焦げたいくつものバスの写真を大きく取り上げ、バスの中にいたのは兵士らではなく学生たちであるかのような誤解を与えた。当時のオーストラリアの首相ロバート・ホークは学生たちの運命を伝え聞いて涙を流したというのだが、在北京オーストラリア大使館でさえその門の外で行われたある兵士の残忍な殺害と死体の切断について報告を上げていたというのに、だ。AP通信のカメラマン、ジェフ・ワイドナーが撮影した象徴的なビデオは、騒ぎの翌日に北京を離れようとする戦車の前で買い物袋を持って無造作に歩いているある男が映っているが、これが、北京に入ろうとする攻撃的な戦車を阻止しようとするある勇敢な市民の象徴となってしまった。いつもは編集にうるさいかのニューヨークタイムズは中国政府をやり込めるためにこの写真をたびたび好んで使い、全く訂正しない。ワイドナー氏も、その前日に戦車の中にいた兵士たちが群集によって引きずり出され殺されたと報じているが、この詳細に関心を持ったメディアはほとんどなかった。

言うまでもなく、中国政府は天安門事件に関して非常に厳しいアプローチをとっている。最近の西側メディアによる文筆家の劉暁波氏の扱いに関する集中的中国批判—例えば11年の服役刑や医療的配慮の欠如によって結果的にがんで死亡したことに関する批判は理解出来る。しかし、1989年に中国が直面したのは学生運動家によって触発された内戦である。そして、その中の何人かのより極端な活動家たちがある程度含まれていたことは認めている。外国からの好ましくない人物も中にはいたかもしれない。中国の活動家はけして火炎瓶は使わない。しかし、誰かがその市民攻撃の数週間前に教育的な何かを行った多能性はある。中国政府は彼らの写真を持っていると主張している。中国が、群衆を駆り立てたとみられる活動家たちを徹底的に調べる様は冷酷であった。

劉暁波氏が事件に関わったのはおそらくほんの僅かであるとみられるが、それにもかかわらず、1989年に彼は抗議活動家として2年の懲役を受けたとされている。しかし、彼の真の「犯罪」はもっと後になって2009年に起き、天安門とは無関係のものである。他の共産主義政権同様、中国は表立った批判にはあまり気をもむことはないが、批評家が体制に反対する何らかの組織に他者を送り込もうとすると、徹底的にこれを弾圧する。劉氏は抜本的な政治改革を要求する彼の零八憲章への署名活動を始めた時、このような鎮圧に招かれた。

世界が人権尊重のため、独裁主義政権に圧力をかけるのは正当だ。どちらかといえばイメージを気にする政権においては他国の内政干渉に文句は言っても対処する傾向がある。しかし、批判を言う前に、外国人はまず正しい事実をつかむべきだ。